Nov
08
2009
0

2009湘南国際マラソン



今回はお金の支払いが遅れたため参戦できず、残念ながら観戦のみです。 ここは約16km地点、引地川の近くの歩道橋から江ノ島方向を写しました。スタートから90分後で、折り返しでゴール方向に戻るランナーはまだ少なめです。 天気もいいし、気持ち良さそうに走っています。 走りたかったなあ。 でも、走ると結構暑いだろうなあ。 これは、17km地点のスーパーユニオンの2階から11:20頃に撮った写真です。江ノ島が見えます。 ユニオンでは、バナナの給食サービスをしていました。 沿道のお店がサポートしてくれるのはうれしい限りです。もちろん、トイレもランナーに開放していて、行列ができていました。仮設トイレよりもやっぱりいいですから。 この時間になるとゴールの大磯方向に戻るランナーの方が多くなっています。 日が出て暑くなったからなのか、路上で救護班のお世話になっている人が近くで二人ほどおりました。 コスプレランナーを撮ってみました。 これは、ヒョウでしょうか?。アイマスクまでヒョウ柄で決めてます。 今回、観戦していて目に付いたのがヒョウ柄の後ろのランナーもしていますが、鼻に張っているブリーズライトです。結構、多くのランナーが愛用しているようでした。そのうち試してみようかな。 こっ、これは、強烈です。 ボウズ頭にメイドさんがつけているヒラヒラ(名称わかりません)が決まってます。 良く見ると黒のストッキングまではいているこだわりようです。 頭が下がります。 そういえば、今回からスポンサーがニューバランスからナイキになったので、ナンバーカードにはナイキのロゴが! ナイキの完走Tシャツ欲しかったなあ。 ちょっと時期が早いですが、サンタクロースのお姉さんです。 楽しそうに走ってますねえ。 クリスマスソングでも聞きながら走っているのでしょうか。 着ぐるみ系です。 他にもピカチューやらカエルやらがいましたが、着ぐるみは暑そうです。脱水症状に陥らないようこまめな水分補給が大切です。 おなじみの脱走ミニーちゃん軍団です。 一人目。 二人目。 楽しそうに愛嬌をふりまきながら走ってます。 三人目。タスキにミッキー募集中と書いてますね。 ミッキーということは、男性ですね。 彼氏を募集中なのか、それともミッキー軍団を作ろうとしてるのか。 ミッキー軍団なら、応募しちゃおうかなあ。 でも、連絡先が???。 四人目。 このミニーちゃんはタスキなし。 軍団としてミッキーを募集しているわけではないのでしょうか。 五人目。 アイキャッチになる大切な耳を手に持って伴走してます。 今回はこれ以上の軍団は発見できませんでした。 現時点で5人以上の軍団であることが判明しました。 だから、どうしたって感じですが、ミニーちゃん軍団は皆さんそれなりに早いです。 今まで一般ランナーを観戦する機会はなかったですが、意外に楽しいことを発見しました。 コスプレランナーも自分で走っているなかで見ている以上にかなり数が多いということが分かりました。 これを見てるだけでも面白いです。みんな仮装が好きなんですね。 今回は、距離的にまだまだ元気いっぱいのランナーばかりでしたが、いつか機会があれば35km地点あたりでへロヘロになっている方々にパワーを与えるような観戦・応援をしてみたいものです。 まずは、その前に2010年は、自分が参加しなきゃ!

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Nov
03
2009
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龍王山霊光寺



日蓮上人の雨乞いの池伝説ゆかりのお寺です。 文永八年、1271年大干ばつに見舞われた時の北条時宗は極楽寺の忍性に雨乞いの祈祷を半月あまり命じたが、雨は降ることがなかった。そして代わりに日蓮上人が田辺ヶ池で現在日蓮上人像の立っているあたりで法華経を唱えると雷とともに大雨が降り始め数日間降り続けたのです。それ以来、日蓮上人の法華経により雨の神「八大龍王」の力を得た田辺ヶ池は『雨乞いの池」と云われるようになりました。 これは山門です。山門の裏は駐車場になっており、本堂はこの先の山の上です。 日蓮上人祈雨旧跡と書かれた石碑が山門の行く途中にあります。文永八年六月と読めますので、上人の雨乞い縁起が書かれているのでしょう。昭和21年に建てられたようです。 伝説の田辺が池の現在の様子です。 干上がっていて水面はありません。 この池は行合川の源流だそうです。 日蓮上人像です。 足元の谷戸には伝説の田辺が池、視線の先には七里ガ浜が見えます。 享保二十年(1735年)江戸講中が建てた「日蓮大菩薩祈雨之旧地」と記されたこの石塔が出土したため日蓮上人像と本堂を建立したようです。 参道です。 奥に見えるのが、本堂です。 本堂です。 門柱が傾いています。 本堂の前に観世音菩薩立像が立っています。 本堂のアップです。 本堂の壁の漆喰に立派な龍が刻まれています。 鎌倉検定試験3級に以下が出題されてました。 「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」と記した石塔が出土し、日蓮上人像や本堂を建立したのが始まりの寺はどこか?」

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Nov
01
2009
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東屋旅館



旅館東屋(りょかんあずまや)は、1897年頃から1939年まで神奈川県鵠沼海岸にあった旅館で、多くの文人に愛され、「文士宿」の異名で知られています。名称は「東家」、「あづまや」とも表記されています。 鵠沼海岸駅の下りホームの階段の上り口にも案内板が設置されています。 地元の「鵠沼を語る会」が設置したようです。 ウィキペディア(Wikipedia)に詳細が記されています。 右の案内板には、以下の通り記されています。 明治後期から昭和初期にかけて、多くの文人が来遊した旅館『東屋』は、鵠沼のこの地にあった。記念碑の右側を正門として、海岸まで広がる約二万平方メートルの広々とした敷地に、松林と池を配し、本館および離が点在していた。 尾崎紅葉の硯友社の文人をはじめ、相次いで逗留した近代文学の旗手たちは、この宿で思索し、想を練り、執筆し、時には談笑し、それぞれの文学世界を創造した。志賀直哉、武者小路実篤らによる白樺派の揺籃の地でもあり、芥川龍之介の短編小説『蜃気楼』は、当時の鵠沼海岸の風景を幻想的に描いている。 旅館『東屋』は明治ニ五年頃、伊東将行・長谷川ゑいによって創業され、関東大震災にあうも再建され、戦時色の強まる昭和一四年に半世紀にわたる歴史を閉じた。 2001年3月 藤沢市教育委員会 東屋は遠い昔に廃業され、今は残っていませんが、足跡はわずかに残っています。 茶室、門柱、文人が利用した床屋などです。 東屋の亭(ちん) – 鵠沼唯一の茅葺き屋根として現存。某氏の茶室として利用され、谷崎潤一郎も好んで逗留したとのことです。今は、住宅として利用されているようです。 東屋海浜口の石畳 – 2005年11月に改修。 門柱跡に設置されたプレートです。 門柱そのものは、近くの鵠沼公民館に移設されています。 理容やながわ 近くの商店街にあります。 昭和15年10月創業、建物自体は関東大震災後、廃材を利用して建てられたもの。 かの有名な文豪芥川龍之介の小説「歯車」にも登場する。 「東海道の或る停車場」は現在のJR藤沢駅です。 「その奥の避暑地」は現在の藤沢市鵠沼。   「或る理髪店主人」は、この理髪店のことで現在でも営業していますが、主人は二代目になっています。 歯車 芥川龍之介      一 レエン・コオト  僕は或知り人の結婚披露式(ひろうしき)につらなる為に鞄(かばん)を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは可也(かなり)怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。彼は棗(なつめ)のやうにまるまると肥つた、短い顋髯(あごひげ)の持ち主だつた。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。 「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るつて云ふんですが。」 「昼間でもね。」  僕は冬の西日の当つた向うの松山を眺めながら、善(い)い加減に調子を合せてゐた。 「尤(もつと)も天気の善い日には出ないさうです。一番多いのは雨のふる日だつて云ふんですが。」 「雨のふる日に濡れに来るんぢやないか?」 「御常談(ごじやうだん)で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だつて云ふんです。」 これが江ノ電鵠沼駅前、賀来神社境内にある「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」です。明治の中頃、大給(おぎゅう)子爵が、一面の砂原を25万坪、300坪1円で購入、日本で最初の計画的開発・分譲別荘地にしたようです。 この石碑には次のようなことが書いてあるようです。 湘南海岸一帯はその昔砥上が原と呼ばれ、鵠沼はその東南の隅にあります。海に向かって左側は片瀬、右側は辻堂です。南側は広々と海が拡がっていて、伊豆大島や三浦半島が望めます。西の方向には富士山が高く天にそびえ立ち、箱根・足柄や大山などの山々がその左右に連なっています。明治19(1886)年に埼玉県川越の伊東将行さんという人が、たまたまこの地にやって来て、あちらこちらと歩き回り、辺りを見回して「こここそ郊外生活の好適地だ」と考え、ここに移り住みました。土地(羽鳥)の人である三觜直吉さんと協力して、他から訪れる人々のために鵠沼館という旅館を創設しました。翌20(1887)年、今福元穎さん・三觜八郎右衛門さん・金子小左衛門さん・田中平八さん・齋藤六左衛門(鵠沼の旧名主で大地主)さんなどと相談して「武相倶楽部」をつくりました。将行さんは自らその部員になり、熱心にお客さんをたくさん呼ぶように努力しましたが、なかなかうまくいきませんでした。将行さんはそれにへこたれず、明治22(1889)年中野武営さん・中島行孝さん・伊藤幹一さんと海岸の開発に取り組みました。道路を通し、松の木を植え、家屋と庭を作るのに便利なように工夫しました。このようにして、その昔、広々とした砂地で、風が吹けば顔に砂が当たって痛かったような土地が、今は見渡す限り景色の素晴らしい場所となったため、ここに別荘を設ける上流階級や大金持ちが、年々増えてきました。蜂須賀茂承さん・益田孝さん・藤堂高紹さん・久松定謨さん・馬越恭平さん・高瀬三郎さん・郷誠之助さん・廣岡助五郎さん・山口寅之輔さん・佐藤長四郎さん・吉田嘉助さん・宮﨑寛愛さん・千葉恒次郎さん・小田柿捨次郎さん・田中銀之助さんというような人々が、代表的な人々です。将行さんは、ますますがんばって、明治25(1892)年に「東家(東屋とも書く)」というもう一つの旅館を営業しました。初めは小さかったのですが、だんだん増築して拡げていきました。建物はとても良くできていて大きく素晴らしかったのですが、贅沢すぎることはありませんでした。それぞれの建物の周りには松の木を植え、庭には池を掘って水を蓄えましたが、思わず手を入れたくなるほどきれいな水でした。旅館の前には波の打ち寄せる海岸を隔てて江の島が手に取るように望めます。何と贅沢な眺めでしょう。この旅館のように海や山の眺望が素晴らしいところは、他には余りないでしょう。その上客室が清潔で、魚料理がおいしく、もてなしが素晴らしいのです。この地の発展に伴って、この旅館の繁盛はとても評判になりました。寺尾亨さんが時折この地にやってきて、世間にその素晴らしさを言い広めました。いつも話していたのは、「鵠沼がこれまでこのように発展したのは、私が思うには将行さんの長年にわたる働きの結果なのであって、その業績を埋もれさせてはならない」ということです。その通りでしょう。ところが将行さんは今年の7月29日に病気で亡くなられました。亡くなったときの年齢は七十五歳です。孫の将治さんがその家督を継ぎ、仲間の長谷川欽一さんがその仕事を受け継ぎました。施設はみなそのままです。地元の有志は、その立派な仕事を褒めたたえ、みんなで相談して石碑を建て、この地鵠沼の開発を記念し、かねてこのことを後々まで伝えようということで、文章を書くことを私に頼んできました。私もそれに賛同し、そのためにそのあらましを原稿として書き記し、銘を書き残すことにしました。

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