Sep
12
2010
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龍の口法難会



9月12日は日蓮上人が龍の口刑場で首を刎ねられそうになるという法難があった日です。今年は、740年目に当たります。 法難会当日の早朝です。  誰ひとりいない静かな境内です。  半日後には、大混雑になります。 本堂です。 中央にさい銭箱があり、左右の上方に餅撒き台が梁に白い布で吊られています。この台から難除け牡丹餅が撒かれます。 ここからは、夕方以降の様子です。 本堂の手前で撒かれるのとは別にこのように販売もされています。クッキー版もあるようです。 アップで撮らせていただきました。 やはり700円するだけあって、撒かれるものより立派なぼた餅です。 ちなみに、鎌倉のぼたもち寺として有名な常栄寺では、同じような箱詰めが1,000円で販売されてました。 線香の煙を浴びる人も大勢いました。 ぼたもち供養大法要の様子です。 大法要の前、17:40から説法が20分ほどあり、大法要は18時から始まります。最後に鎌倉のぼたもち寺である常栄寺の祭主から始まる焼香で法要が終わりになりますが、、終わったのは18:50頃でした。難除けぼた餅をゲットしたい人は、説法が始まるころから餅撒き台の周辺に集まっています。 確実に難除けぼた餅を入手するには、18:30過ぎに本堂内の餅撒き台の周辺に立っていたほうが確実と思われます。 大法要が終わったらいよいよ難除けぼたもち撒きが始まります。餅撒き台に梯子がかけられ、お坊さんほかが上ります。 次にお餅が台に上げられ、火打石でおまじない、大工の棟梁の一本締め、そして皆で「難妙法蓮華経」と三度唱えて餅まき開始です。 開始は19時数分前といった頃でしょうか、撒き始めると一分くらいで終わってしまいます。 お餅をゲットしようとする人々の大混雑のなか、空中キャッチは難しいです。床に落ちたのを拾うほうが確実でした。 難除けぼた餅撒きが終わった直後に、本堂から吐き出される人たちです。 拾う方が忙しくて、撒いている時の写真は撮る余裕がありませんでした。 取ったぼた餅はこんな感じで、ビニールの袋に親指大のもの二個ほどが小分けにされています。 袋から開けて、お皿に乗せてみました。常栄寺では、「頸つぎのぼた餅」をいただきましたが、引き続き「難除けぼた餅」を食べれば、御利益2倍というわけです。 あえて比べてみれば、常栄寺でいただいたぼた餅の方がおいしかったように思います。 ぼたもち供養大法要と難除けぼた餅撒きが終わると万灯練行列供養の始まりです。纏いに引き続き、万灯が奉納されます。 こんなダイナミックな動きをするお兄さんもいました。 色々な万灯が次々と奉納されていきます。 このようなカラフルな万灯もありました。 後ろの提灯には、「摩耶寺(まやじ)」と書かれています。調べてみると品川荏原の日蓮宗のお寺のようです。 子どもたちは万灯練り供養よりも、金魚すくいに夢中です。 門前は大混雑です。 ここは、江ノ電もすぐ近くを通過するところなので、交通整理が大変です。 沿道に夜店もたくさん出ています。 歩道の歩行が大変になるほどの人出です。 お店はやはり食べ物やさんが圧倒的に多いような気がします。 近くに住んでいながら、今回初めてきてみましたが、とにもかくにも、この地域最大のお祭りというのも体感し納得しました。

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Sep
12
2010
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日蓮上人辻説法跡



辻説法(つじせっぽう)とは、往来において通行人等に対し行う布教活動であり、とくに日蓮上人による鎌倉の辻説法が代表的です。  日蓮上人による鎌倉の辻説法は、鎌倉市の小町大路(小路)の2箇所に、辻説法跡の記念碑が建てられています。現在の小町大路は幅員6mほどですが、往時は倍ほどの11mあったことが発掘調査から分かっているようです。  右の碑は、小町2丁目のものですが、大町の本興寺門前にもあるようです。 右の松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされた事件は、松葉ヶ谷法難と呼ばれています。 日蓮四大法難と呼ばれるものの一つ。日蓮が、文応元年7月16日(当時のユリウス暦で1260年8月24日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1260年8月31日[1])に鎌倉幕府の五代執権北条時頼へ『立正安国論』を提出し、その内容が当時おこっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を初めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとし、幕府へ宗教政策の転換(正法を法華経とする)を促す内容であったため、その約一月後の8月27日(当時のユリウス暦で1260年10月3日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1260年10月10日)に浄土教信者である念仏者たちによって草庵を夜間襲撃・焼き討ちされた事件を言う。 この地は、鎌倉時代、屋敷町と商家町があり多くの人が行き来していた小町大路に面した一角にあり、大変賑やかだったようです。  現在の辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学が整備したもので、智学の研究によると実際に日蓮が辻説法を行ったのは、現在の蛭子(ひるこ)神社のある辺りとされています。 辻説法跡から妙本寺方面に少し行くと、蛭子神社の石碑が見えてきます。  辻説法を行った位置は、この石碑のある辺りだったのでしょうか。 こちらは蛭子神社の本殿です。   「新編相模風土記稿」に「夷堂橋は小町と大町との境にあり。…昔は此辺に夷三郎社ありしとなり」とある。此の附近一帯の産土神、地主神として里人深く信仰していたが、永享年中、本覚寺が創建されるに及び、同寺境内に移され山内の鎮守として奉斎された。 明治維新の神仏分離により同寺の管理を離れ、現在の社地にあった下部落の鎮守七面大明神に合祀された。 また宝戒寺内にあった上部落の鎮守山王権現も合祀して、三社を合わせ社名を蛭子神社と改称した。 明治六年村社に列格され、明治七年八月社殿を新築した。本殿はそのとき鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲り受け移築したものである。昭和九年参拝殿を新築。昭和十五年神饌幣帛料供進神社に指定された。 こちらが上に記されている夷堂(えびすどう)橋になります。  正面に見えるのは、日蓮宗の本覚寺です。  裏手の方には、同じく日蓮宗の妙本寺と常栄寺もあります。 橋のたもとに石碑が建っています。  夷堂橋に関し新編相模国風土記稿に次のように述べられています。  昔鎌倉時代の繁栄した頃は、大町の付近は商店街であった、商業地と住宅地とは夷堂橋を境として分けられ、橋の以北を小町、以南を大町と称した。 だいぶ寄り道をしてしまいましたが、日蓮上人辻説法跡に話しを戻します。  「日蓮大士辻説法霊跡」と書かれた石碑と真ん中に「日蓮腰掛石」と呼ばれる石が据えられています。  田中智学は、日蓮の腰掛石が路傍に捨て置かれている様を見て、日蓮の旧蹟復興を考え、旧蹟地の限定に努めた結果、現蛭子神社辺りと推測されたが、その辺りには場所がなかったため、現在地に腰掛石を安置したということのようです。  小町大路には、多くの日蓮宗寺院が並んでいますが、昔は妙勝寺という寺もあって、日蓮腰掛石が置かれていたことで知られていました。しかし、妙勝寺が福島県へ移動すると腰掛石は路傍に置かれたままとなっていたようです。  腰掛石を中心とした日蓮上人辻説法跡の旧蹟は、明治34年に完成しました。 この辺りは、幕府に近いこともあって大変賑わっていた場所と考えられ、日蓮は毎日のように辻に立って、民衆への布教を続けたといわれています。 こちらは、日蓮上人辻説法図です。 往時は、こんな状況だったのでしょうか。 ここで日蓮は、『立正安国論』の中に書いてあるように、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法(誤った教え)を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張したのでしょう。

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Sep
12
2010
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常栄寺



常栄寺は日蓮宗のお寺で、妙本寺の右手を数分歩いた路地沿いにあります。 うっかりすると見過ごしてしまいそうです。  常栄寺の創建は1606年(慶長11年)、寺号は尼の法号「妙常日栄」にちなんだもの。日蓮が法難に遭った9月12日には、「ぼたもち供養」(龍口法難会)が行われています。  本尊は三宝祖師、両脇に鬼子母神像、桟敷尼像を安置しています。 かって源頼朝が寺の裏山に由比ヶ浜で行った「千羽鶴の放生会」を観覧するために桟敷(さじき、展望台)を設けたことから、のちに住んでいた尼は桟敷尼(さじきに)と呼ばれた。その尼が、幕府に反抗して捕らえられた日蓮が龍ノ口の刑場に連れて行かれる際、ごまのぼた餅をあげたことから、通称、ぼたもち寺と言われています。 境内左手奥にある桟敷尼夫妻の墓です。 ◎桟敷の尼  桟敷とは、源頼朝が由比ヶ浜で行った「千羽鶴の放生会」を観覧するために設けられた展望台で、尼はその管理をしていたという。1203年(建仁3年)に起こった比企氏の乱によって滅びた比企能員の夫人の妹という説がある。  腰越の法源寺も「ぼたもち寺」と呼ばれるが、尼の実家の菩提寺であることから、尼にちなんで「ぼたもち寺」と呼ばれるようになったといわれる。  同じ腰越の本龍寺は、法源寺と開山が同じであることから兄弟寺と呼ばれているが、ここには比企高家の墓がある。この人物は比企能員の子で大学三郎かと考えられている(参考:龍口寺輪番八ヶ寺 妙本寺 鎌倉と日蓮)。 墓の前にある塚本柳斉の歌碑です。  これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみにし所 歌の作者・塚本柳斉は本名・塚本松之助といい、明治12年(1879)、千葉県に生れ、東京の哲学館(現・東洋大学)に入ったが、後、二松学舎に転じて卒業した。明治四十五年頃から豊島師範の国語・漢文の教師となり、約25年間教え、この間に多くの人の伝記を漢文で書いた。昭和14年(1939)に鎌倉由比ヶ浜に移住し、41年11月、88才で亡くなり妙本寺に葬られた。 その後日蓮は、奇跡的に処刑を免れたことから、「頸つぎのぼた餅」という逸話が生まれ、「御首継ぎに胡麻の餅」といわれるようになりました。 山門には龍口寺法難会のポスターが貼られていました。  9月12日の18時と深夜0時に、龍口寺ではぼたもち撒きが行われます。 本堂の左手に龍口法難の縁起が書かれてました。  龍口刑場で日蓮上人が首を刎ねられそうになった時、江ノ島方向からの光によって奇跡的に生還することができたそうです。 山門の左手です。 「たつのくち くびのおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち常栄寺」と書かれています。 山門の上です。 「これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみにし所」と書かれています。 扉の左は「日蓮宗橘」という名の紋で、周りを井桁で囲まれているので「井桁に橘」とも呼びます。 右の扉には、源頼朝の家紋とされる笹竜胆(ササリンドウ)の紋となっています。  ※「笹竜胆(ササリンドウ)紋」 村上源氏の家紋とされています。清和源氏の源頼朝が使ったという資料はないものの、江戸時代から「源氏の家紋」とされているそうです。 今日は、日蓮が法難に会った9月12日ですが、山門をくぐると右手にテントが用意され、参拝客に緑茶とぼた餅が振舞われていました。ぼた餅は、1000円で販売もされてました。 こちらが、振舞われた「頸つぎのぼた餅」です。 9月12日 9:00~16:00に振舞われます。 本堂右手の頸つぎのぼた餅の縁起です。  囚われの身になった日蓮上人が龍ノ口の刑場に送られる途中桟敷の尼が仏の加護を願いごまのぼた餅を献上しているところです。 ◎ぼた餅とおはぎの違い どちらもお彼岸に供えるものですが、季節の花になぞらえて、春のお彼岸に供えるのは牡丹餅、秋のお彼岸に供えるのはお萩と呼んだ。 ぼた餅は、牡丹餅が訛り、いつのまにかそう呼ばれるようになったそうです。  

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