飯盛り女の墓
旧東海道・藤沢宿(現R467号線)の永勝寺に飯盛り女の墓があります。
こちらが永勝寺の入り口になります。
R467沿いのJAから路地を100mほど進んだ左手にあるお寺です。
永勝寺(飯盛女の墓)
墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。飯盛女の墓は、この源蔵が建てたものです。39基の墓石には48体の法名が刻まれていて5体は男です。飯盛女のいる旅籠は繁盛しました藤沢宿には旅籠が49軒あり、このうち飯盛女をかかえたのは27軒ありました。1軒に二人ずつ置かれました。飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来たのです。旅人の世話や食事の給仕だけでなく男たちの相手にもなりました。飯盛女として悲しい一生を終えたのです。
Wikiによれば、
17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したとも、給仕をする下女が宿駅間の競争の激化とともに売春を行うようになったとも言われる。
藤沢市教育委員会によれば、
飯盛女とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕をする女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、万延2年(1861)宿民のためとして1旅籠屋2名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。永勝寺に眠る小松屋の抱えた飯盛女の墓は39基あり、内38基が宝暦11年(1761)から享和元年(1801)まで、小松屋の墓域に建てられている。このように供養された者は少なく、借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、小松屋の温情がしのばれる。
東海道五拾三次 赤坂 広重 隷書東海道
旅籠屋は表通りに表札を掛けるが、飯盛旅籠屋には表札はない。土間が狭く、格子をした板の間の少し後ろに、飯盛女を並べる見世を置いている。
飯盛り女は、広重、十返舎一九も好んで描いた宿場の華であった。
幕府は、1825年(文政8年)、藤沢外四宿に次のようなお触れを出しているようです。逆に言うと規制をしなければならないほど、繁盛していたということなのでしょう。
一、旅籠屋一軒に飯盛女二人以上おかない。
一、飯盛女に木綿以外の衣類を認めない。
一、無理に呼び込み酒食を勧めたり、多額な要求をしない。
一、宿内のものはもちろん、助郷人足や近住のものは決して宿泊させない。
一、藤沢宿では、江の島その他に参詣にくるものが多いが、その際、飯盛女を出迎えにやらせない。
山門を潜ると左手に3間四方の墓地があります。
墓石は高さが2尺(60cm)、一部には2人の法名が刻まれています。
墓標には俗名と没年、そして施主名が小松屋源蔵と刻まれています。
このお墓が「飯盛り女」の墓です。
飯盛女がこのような形で葬られているのは珍しいことのようです。
法名の最初の一文字は、皆同じ字のようです。宝暦十一年と読めます。永勝寺の飯盛女の墓は、1761年(宝暦11年)から1801年(享和元年)に葬られたものといわれているので、たぶん、このお墓が最初のお墓になります。
五十嵐富夫氏の労作「飯盛女」(新人物往来社)によれば、藤沢宿の旅篭屋小松屋源蔵方の女の平均寿命は、21歳と3ヶ月で41年間に39人が死んだということです。
R467号沿いにあるラーメン店・小松屋さんです。
小松屋源蔵の子孫が経営しているとのことです。
旅籠小松屋は江戸時代末期まで旅籠を現在の本町郵便局の近くで営んでいたということです。このラーメン店・小松屋さんも本町郵便局の隣に建っています。
















