Jun
18
2011

満福寺

13:18 pm

腰越の満福寺です。
真言宗大覚寺派龍護山満福寺というのが正式名称。
この寺は、744年に僧・行基が開山した真言宗のお寺ですが、源義経にまつわる歴史上の事件で有名です。。
鎌倉時代、1185年5月、義経が、木曽義仲や平家を討ち滅ぼして、 敵の総大将・平宗盛を捕虜に鎌倉に凱旋しました。 しかし、鎌倉幕府総帥である、兄・源頼朝は義経の鎌倉入りを差し止め、 義経に会おうとしませんでした。義経は腰越の満福寺に逗留して、 公文所別当の要職にあった、大江広元に頼朝へのとりなしを頼む書状を送りました。 その書状が「腰越状」と呼ばれ、幕府の公式記録書「吾妻鏡」や、 「平家物語」にも全文が記載されています。

参道の手前の線路は江ノ電の線路です。時折、こんな風に江ノ電が通ります。



寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されています。
満福寺玄関ショーウインドウで見る事が出来ます。

以下は、Wikiによる吾妻鏡からの現代訳です。

「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。憐れんで下さるでしょうか。今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿が御他界され、孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓のなどに召し使われました。しかしながら、期が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸を鯨の餌になる事も厭いませんでした。また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。
我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。
元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経
進上因幡前司殿

Wikiでは、腰越状の史料的評価についていかのように記載されています。

近年の研究では腰越状を掲載している『吾妻鏡』の記述に多くの疑問が指摘され、義経が本当に腰越で留め置かれたのかという事実関係[1]を含め、腰越状の真偽も問われている。腰越状の文面については、頼朝の怒りの原因とされる任官問題や自専にまったく触れておらず、義経の五位衛門尉任官は、受領より格下の地位に過ぎず、「当家の面目、希代の重職」などではありえないなど、偽作説、義経が書いた原文があったとしても、相当の虚飾が加えられているとの見方がされている。また頼朝の親族への冷酷さを強調する『吾妻鏡』幕府編纂者による捏造の可能性[2]も指摘されており、腰越状の史料的評価は分かれている。
この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、頼朝へ取り次いでもらったものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなった。

「源義経と腰越」と題した文学案内板が建っています。
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官称した。父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させた。
 しかし、頼朝との不和が深まり、補虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。
 「平家物語」(巻第12 腰越)には次のように記されている。
 さればにや、去んぬる夏のころ、平気の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。
 その申し状に日く、
 源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)  (引用文献 新潮日本古典集成 昭和56年)
 しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などや作品にもなり、現在でも「判官もの」 として親しまれている。
 中世には鎌倉と京を結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。
平成8年2月

義経といえば、弁慶がつきもの。腰越状を書くための墨をするために水を汲んだとされる硯の池。

弁慶が手玉にしていたという手玉石。


没後750年祭で建立されたという義経公の慰霊碑。

弁慶が座ったという腰掛石。

六地蔵。

大師遍照金剛という石碑があります。
「大師」は偉大なる師、という意味で日本では大師号として朝廷から徳の高いお坊さまに贈られました。お大師さまは空海と言う僧名ですが弘法大師という大師号を九二一年朝廷から給わりました。
遍照金剛(へんじょうこんごう)は、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味します。

義経宿陣之跡。
昭和16年3月、鎌倉市青年団建立とのこと。


No Comments »

RSS feed for comments on this post. TrackBack URL

Leave a comment

You must be logged in to post a comment.

www.hbirds.net