片瀬江ノ島駅前暴走注意事件
R134から小田急線の片瀬江ノ島駅に入る道路は、右のように夜間、閉鎖されています。
手前がR134、奥が片瀬江ノ島駅になります。
なぜなのかと不思議に思っていましたが、昔、R134に暴走族が跳梁跋扈していたときに起こった事件(片瀬江ノ島駅前暴走注意事件)を契機に閉鎖されたものと思われます。
そういえば、R134から江ノ島に向かう県道305号線もかつては午後10時から翌日午前5時までは閉鎖されていましたが、こちらの方は現在は深夜も通行が可能となっているようです。
暴走族の歴史(Wiki)
1970年代になると、オートバイは低価格化とともに中・低所得者層へも普及し、とりわけ不良少年をはじめとした低所得者層の子息に浸透していくと暴行・恐喝事件を起こす傾向が強くなり、一般市民への暴力事件やグループ同士の抗争事件が社会問題として取り上げられるようになった。1972年に富山県富山市中心部の城址大通りから端を発して全国に広がった騒動をきっかけに、「暴走族」の呼び名が広まり警察当局もこの名称を公文書に用いた[2]。東日本では1972年ごろからグループ化が始まり、1974年には確認されているだけで86件の抗争事件が発生。 1975年上半期の時点では、全国に571グループ、約2万3千人が存在しており、包丁、火炎瓶、ヌンチャク、角材や木刀などで武装するグループも現れた。グループ同士の対立の増加は、結果として「自衛を目的とした連合の結成」を促すこととなり、1975年ごろの大組織の台頭は小組織の小競り合いを減らした反面、抗争の規模を肥大化させ、グループ同士の争いのみならず、暴徒化した一般の群衆を巻き込んだ暴動にまで発展する事もあった。
1980年前後に暴走族は最盛期を迎えた。警察庁の1980年11月調査では、全国で754グループ、38,902名の暴走族が確認された。これは1980年6月に比べて10.8%増の数字である(女性暴走族は948名から1,426名に増加)。低年齢化も進み、15歳以下の構成員は、1976年当時の47名から1,208名へと約25倍になっていた。1981年にもグループ数は更に増加し、835グループが確認され、8,255名が検挙された(前年比82.5%増)。
暴走族の大規模な抗争例(Wiki)
大規模な抗争の例として、1975年6月8日に国道134号で、東京の暴走族(ブラックエンペラー、ルート20、スペクター、アーリーキャッツなど)400名と、神奈川と横須賀の暴走族(ピエロ、ホワイトナックル、崇族、邪道会など)の連盟200名が、同年5月8日に起こった傘下グループ間の諍いを理由に大乱闘を行った。4台の車両が炎上、21台が大破、相当数の負傷者を出した。のちに神奈川県警の鎌倉警察署はこの件に関する捜査本部を設置し、抗争に関与した者の一部を逮捕した。
R134と並行に走る裏道から駅前広場にも右のように入れないようにクルマ止めが施してあります。
確証はないですが、閉鎖のきっかけは多分この事件なのでしょう。
今でも、小規模な集団が出没しているような騒音を耳にする時もありますが、昔は大変な状況だったようです。
片瀬江ノ島駅前暴走注意事件の概要(Wiki)
1989年4月17日午後10時頃、小田急電鉄片瀬江ノ島駅前ロータリー内に、暴走族のオートバイが侵入、騒乱状態となっていた。被害者の男性は甥らとともに自宅への帰途、この暴走行為を目撃。被害者は、「俺は暴走族は嫌いだ。こらしめてやる。」と言い、近くにあった鉄パイプを持って、居合わせた少年らに対して注意をしたところ、逆上した少年らに鉄パイプを奪われたあげく、殴る蹴るの暴行を受けた。被害者は運ばれた病院で、翌日、外傷性ショックにより死亡した。後日、少年2名が傷害致死の容疑で逮捕されたが、捜査を通じて少年らはロータリー内での暴走行為と無関係であり、たまたま乗用車でロータリー内に侵入した際に、被害者と鉢合わせし口論となったことがきっかけとなったことが判明した。
被害者の男性は、毎日新聞夕刊紙のコラムを担当し、日本記者クラブ賞の受賞歴がある名編集者であった。なお、クラブ賞の受賞理由は、「単純な決めつけから一歩抜け出た批評精神」などが評価されたものであった。
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