常立寺
元使五人塚と枝垂れ梅で有名な龍口山常立寺です。当初は「回向寺(えこうじ)」という真言宗の寺院だったそうですが、1532年に日豪により日蓮宗の寺院となりました。
日蓮宗の龍口山・常立寺は、總寺院・龍口寺を護る寺の一つになっていて周囲に八ヵ寺(本蓮寺・常立寺・東斬寺・勧行寺・本龍寺・妙典寺・本成寺・法源寺)があります。
「元使塚」です。これは、大正15年に時の住職によって建てられたそうです。
元使とは、元(現在のモンゴル)から派遣された特使のこと。歴史で有名な元寇(文永、弘安の役)の際に、元の皇帝からの国書(降伏勧告)を持って、日本に来ましたが、スパイ容疑をかけられて時の鎌倉幕府の執権北条時宗により、龍口刑場(現在の龍口寺のある場所)で処刑されました。
元使構成員は、杜世忠(モンゴル人)はじめ、イスラム、中国(2名)、通訳の高麗人の5名でした。
o 正使:杜世忠(34歳・蒙古人)
o 副使:何文著(38歳・唐人)
o 計議官:撤都魯丁(32歳・ウイグル人)
o 書状官:果(32歳・ウイグル人)
o 通訳:徐賛(32歳・高麗国人)
皆、30代の若さです。
石碑には「杜世忠」の辞世の句『出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機』 が刻まれています。
門を出ずるに妻子は寒衣を贈り
我に問う、西行幾日にして帰ると
来る時もし黄金の印を帯びたれば
蘇奏を見て機を下らざるなかれと
「家を出る時、妻子は寒さを凌ぐ衣服を自分に贈ってくれ、西行(日本)からいつ帰ってくるのか、もし、首尾よく帰って来たならば、蘇秦の例のように機織の手を休めないということことはないでしょうと言っていた」
日本との交渉に首尾よく成功すれば、故郷に残した妻子が暖かく迎えてくれるはずだったのに、遠い異国の地で処刑されてしまう無念を詠んだのだと思われます。
黄金の印を帯びるとは、日本との交渉に成功して出世することを言う。
蘇秦は、中国の戦国時代の遊説家(縦横家)で洛陽の人。合従(がっしょう)説が有名。合従とは、中国の戦国時代に考えられた外交政策のひとつで、戦国七雄のうち、秦以外の六国が縦(たて、従)に同盟することをいう。
蘇秦は洛陽から斉に行き、張儀と共に鬼谷子に縦横の術を学んだ。その後、諸国を放浪し、君主を説いて回ったが中々受け入れてもらえず、困窮して郷里に帰った所を親族に嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、元々彼のことを周囲が知っていて断られた。次に秦に向かい、恵王に進言したが、受け入れられなかった。これは当時秦では商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士が好まれなかったためと言われる。
「蘇奏を見て機を下らざるなかれ」とは、このように蘇秦が君主を説いて回るのに失敗し、困窮して故郷に帰ったとき、妻は機織りの手すら休めなかったという故事を踏まえ、そのような冷たい仕打ちはしないよということ。
しかし、文脈としてはちょっとおかしいですね。たとえ黄金の印を帯びずに帰ってきても、蘇奏の故事のようにはしないよという方が、しっくりきますが・・・・。漢文の読み方を間違っているのかも。どなたか詳しい方がいれば教えてください。
なお、「杜世忠」と共に処刑された副使「河文著」と通訳「徐賛」の辞世の句も境内にあるようです。
五輪塔5基には、モンゴル式にハタクという青い布を供養塔に巻いて供養しています。
青色はモンゴル民族に愛されている天空の色であり、成吉思汗の時代にも青い旗が使用されていたそうで、英雄を表わす色だそうです。
「蒼く深く澄み切った空。雲はなく、飛行機も鳥の姿も見えない」そんなモンゴル独特の空の色を、モンゴリアンブルーというのだそうです。
下の共同通信の記事のように、モンゴルの供養の習わしということです。
来日中のモンゴルのエンフバヤル大統領が1日、神奈川県藤沢市の常立寺を訪れ、鎌倉時代の元寇の際、元のフビライハンの国書を携え日本へ派遣されて、処刑された5人の使者を供養する「元使塚」を参拝した。 モンゴルの高僧らを伴って訪問した大統領は、焼香した後、モンゴルの習わしに従ってハタクという青い布を供養塔に巻き、手を合わせた。同寺の住職の説明に熱心に耳を傾け、塔の横に梅の木を植樹し、水をかけた。 同寺によると元使塚は、1275年に幕府の執権北条時宗によって、近くの龍の口刑場で処刑された元の使者杜世忠)ら5人の供養塔。 同行した大統領夫人は「長年供養してくださりありがとうございます」と住職に声を掛けていた。 2007/03/01 【共同通信】より
これは、常立寺での大相撲のモンゴル力士の記念写真です。
毎年、4月に行われる大相撲の藤沢場所の際、モンゴル国大使、モンゴル国力士団と共に、朝青龍、白鵬らが墓参し、ハタクを新調するそうです。
毎日新聞の記事
4月8日に開催される「第15回大相撲藤沢場所」を前に、新大関となった白鵬らモンゴル力士13人が7日、元寇(1274年)の翌年に鎌倉幕府に処刑された元の使節5人が眠る常立寺(藤沢市片瀬)を参拝した。元の皇帝、フビライ・ハーンは5人を日本に派遣し、幕府に降伏を要求したが、執権の北条時宗は拒否し、使節団を同寺近くの刑場で処刑した。遺体は同寺に埋葬され、墓石は「元使五人塚」と呼ばれるようになった。参拝予定だった横綱、朝青龍は都合で欠席したが、白鵬らが現れると、境内に詰めかけた観客から大きな歓声が上がった。力士たちは神妙な面持ちで、次々と墓に手を合わせた。墓参を終えた白鵬は「(墓の中で眠る方も)私たちが来て、喜んでくれたと思う」と静かに話した。
直接、関係ないですが、モンゴリアンブルーとは、蒙古斑のことでもあるようです。
雑学として、「ケツが青い」が蒙古斑から来ている事実を認識しました。
日本人の75%が新生児の時に蒙古斑を持って生まれてくるのも、遠い遠い遠い先祖の血が大陸に由来するからとも言われています。
蒙古斑はモンゴル人や他の東アジア・東南アジアの民族(日本人、中国人、ブータン人、韓国・朝鮮人、インドネシア人等)やアメリカ州の先住民族といったモンゴロイド系で一般的である。また、黒人の乳幼児の臀部の真皮にも、高率に同様の蒙古斑細胞の発色がみられる。しかし既に表皮に移動済みのメラノサイトが産生するメラニンが黄色人種に比べて多い(=肌の色が濃い)ため、蒙古斑が不明瞭になっている。発生率はモンゴル人の幼児で95%、他の東アジア人の幼児で80%、ヒスパニック系の幼児で40~50%、インド・ヨーロッパ語族の幼児で1~10%と言われている。
蒙古斑が乳幼児の臀部に出現することから、人(特に子どもや若者)が未熟であることを揶揄して、比喩的に「ケツが青い」という表現がなされる。
誰姿森(タガスガノ森)元使塚と書かれています。刑場である龍口は誰姿森と呼ばれていたそうです。
なぜ、日蓮宗の寺にこのような元寇がらみの元使塚があるのかは、日蓮の立正安国論にも関連があり、元使殺害の評価については、日蓮が批判していたこともあって、その霊を弔うためだったと思われます。
境内にある六地蔵です。
六道とは天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄のこと。お地蔵さんは我が身を六つに分かちて各々の辻に立ち、艱難辛苦から迷える衆生を救済してくれると信じられるようになったとのことです。結界の地でもある寺院の境内や墓地の入口などはその六道に通ずる辻と見做されて、六地蔵が祀られるようになったようです。
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本侵攻を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。
それは、
* 日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。
* ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。
威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。
一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。
近年有力視されている意見としては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いのときのみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである。[要出典]
近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている[21]。『元史』日本伝 至元十八年正月および二月(1281年1月22日 – 3月20日)条によると、クビライは遠征に先立って大都に遠征軍の指揮官である阿剌罕、范文虎、忻都、洪茶丘らを召集し勅を下しているが、そのなかで「朕、漢人の言に聞くに、『人の家、国を取るには百姓土地を得んと欲す。もし尽く百姓を殺さば徒に地を得るも何に用いん』」とも述べており[22]、このため、弘安の役で戦争に勝利した暁には屯田を目的として長期的な日本の占領・支配することを意図していたのではないかと考えられている。これをもって侵攻の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、旧南宋の兵員からなる江南軍10万人は軍隊兼移民団だったのでは、と言う見解も出されている。[23]
蒙古国書・元使殺害
元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね他の歴代中国王朝の国書と比べて驚くほど低姿勢であると見ているのに対して、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。
ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡愚童訓』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。」とあり[29]、『元史』世祖本紀 至元十年六月戊申(1273年7月13日)条にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上。」とある。趙良弼はほぼ一年間太宰府に留まっていたが、趙良弼伝にもあるように、その間「日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗、産物」などといった具体的な国情について現地で情報収拾を行い、帰還して後にこれらを報告書にしたためてクビライに提出していた。(ただ、趙良弼自身は日本遠征についてのクビライの諮問に対しては、住人の風俗や性格は悪く、地勢も山水が多く耕作が困難であるため富みを得られず、渡海も困難であるため、遠征は無益である旨を奏上している[30]) こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。
元使殺害の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙であると評価する論者と、元の2回目の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。
(国書の原文)
上天眷命
大蒙古皇帝奉書
日本國王朕惟自古小國之君境土相接尚務講
信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異域畏威懐徳者不
可悉數朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑
即令罷兵還其疆域反其旄倪高麗君臣感戴來
朝義雖君臣而歡若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之東藩也日本密邇
高麗開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘
之使以通和好尚恐
王國知之未審故特遣使持書布告朕志冀自
今以往通問結好以相親睦且聖人以四海爲家
不相通好豈一家之理哉以至用兵夫孰所好
王其圖之不宣
至元三年八月 日(国書の意訳文)
天の慈しみを受けて最高の位についた、
大蒙古国の皇帝が、書を、
日本の国王に送る。
朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは
修好につとめるものである。
ましてや、朕の
先祖は、天の命によって世界の所有者となっている。
遠方の異国でも朕の威力を畏れ徳を慕うものは数え
切れないほどである。
朕が即位したばかりのころ、高麗(朝鮮半島)の民
が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、
老人と子供を故郷に帰らせた。
高麗は感謝して朝貢に来た。
朕と高麗とは、君と臣の関係だが、喜びあうこと
は父子のような間柄である。
おまえやおまえの重臣、その家臣たち(*)も、この事は知っているであろう。
高麗は朕の東方の属国である。
日本は高麗に接した国で、建国以来しばしば中国に
朝貢に来た。
ところが、朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。
おそらくは、
おまえの国は世界の情勢を知らないのであろう。
したがって使いを派遣し、国書を持たせて、
朕の意思を知らせる。
いまから親交を結ぼうではないか。
聖人は世界を一家と考える。
親交を結ばないのは、一家とは言えないことである。
朕も軍事力を使いたくはない。
よく考えなさい。
それでは・・・。
至元三年八月日
学習院の游泳訓練場の宿泊所
1891年(明治24年)、学習院が隅田川にあった游泳訓練場を川口村片瀬に移す。1904年(明治37年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、9棟)が翌年にかけて竣工し、3年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。
志賀直哉/初出「朱欒」(明治45・2)に「十三の夏、学習院の初等科を卒業して、片瀬の水泳に行つて居た。常立寺の本堂が幼年部の宿舎になつて居た。」とあるように、学習院の游泳訓練場の宿泊所としても使われ、志賀直哉のほかにも武者小路実篤、里見惇等が滞在したところとのこと。
寄宿舎完成までの明治24年~明治36年までの間、常立寺等の周辺の寺院が宿舎として使われたようです。
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