日蓮上人辻説法跡
辻説法(つじせっぽう)とは、往来において通行人等に対し行う布教活動であり、とくに日蓮上人による鎌倉の辻説法が代表的です。
日蓮上人による鎌倉の辻説法は、鎌倉市の小町大路(小路)の2箇所に、辻説法跡の記念碑が建てられています。現在の小町大路は幅員6mほどですが、往時は倍ほどの11mあったことが発掘調査から分かっているようです。
右の碑は、小町2丁目のものですが、大町の本興寺門前にもあるようです。

右の松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされた事件は、松葉ヶ谷法難と呼ばれています。
日蓮四大法難と呼ばれるものの一つ。日蓮が、文応元年7月16日(当時のユリウス暦で1260年8月24日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1260年8月31日[1])に鎌倉幕府の五代執権北条時頼へ『立正安国論』を提出し、その内容が当時おこっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を初めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとし、幕府へ宗教政策の転換(正法を法華経とする)を促す内容であったため、その約一月後の8月27日(当時のユリウス暦で1260年10月3日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1260年10月10日)に浄土教信者である念仏者たちによって草庵を夜間襲撃・焼き討ちされた事件を言う。
この地は、鎌倉時代、屋敷町と商家町があり多くの人が行き来していた小町大路に面した一角にあり、大変賑やかだったようです。
現在の辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学が整備したもので、智学の研究によると実際に日蓮が辻説法を行ったのは、現在の蛭子(ひるこ)神社のある辺りとされています。
辻説法跡から妙本寺方面に少し行くと、蛭子神社の石碑が見えてきます。
辻説法を行った位置は、この石碑のある辺りだったのでしょうか。
「新編相模風土記稿」に「夷堂橋は小町と大町との境にあり。…昔は此辺に夷三郎社ありしとなり」とある。此の附近一帯の産土神、地主神として里人深く信仰していたが、永享年中、本覚寺が創建されるに及び、同寺境内に移され山内の鎮守として奉斎された。
明治維新の神仏分離により同寺の管理を離れ、現在の社地にあった下部落の鎮守七面大明神に合祀された。
また宝戒寺内にあった上部落の鎮守山王権現も合祀して、三社を合わせ社名を蛭子神社と改称した。
明治六年村社に列格され、明治七年八月社殿を新築した。本殿はそのとき鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲り受け移築したものである。昭和九年参拝殿を新築。昭和十五年神饌幣帛料供進神社に指定された。
こちらが上に記されている夷堂(えびすどう)橋になります。
正面に見えるのは、日蓮宗の本覚寺です。
裏手の方には、同じく日蓮宗の妙本寺と常栄寺もあります。
橋のたもとに石碑が建っています。
夷堂橋に関し新編相模国風土記稿に次のように述べられています。
昔鎌倉時代の繁栄した頃は、大町の付近は商店街であった、商業地と住宅地とは夷堂橋を境として分けられ、橋の以北を小町、以南を大町と称した。
だいぶ寄り道をしてしまいましたが、日蓮上人辻説法跡に話しを戻します。
「日蓮大士辻説法霊跡」と書かれた石碑と真ん中に「日蓮腰掛石」と呼ばれる石が据えられています。
田中智学は、日蓮の腰掛石が路傍に捨て置かれている様を見て、日蓮の旧蹟復興を考え、旧蹟地の限定に努めた結果、現蛭子神社辺りと推測されたが、その辺りには場所がなかったため、現在地に腰掛石を安置したということのようです。
小町大路には、多くの日蓮宗寺院が並んでいますが、昔は妙勝寺という寺もあって、日蓮腰掛石が置かれていたことで知られていました。しかし、妙勝寺が福島県へ移動すると腰掛石は路傍に置かれたままとなっていたようです。
腰掛石を中心とした日蓮上人辻説法跡の旧蹟は、明治34年に完成しました。
この辺りは、幕府に近いこともあって大変賑わっていた場所と考えられ、日蓮は毎日のように辻に立って、民衆への布教を続けたといわれています。
こちらは、日蓮上人辻説法図です。
往時は、こんな状況だったのでしょうか。
ここで日蓮は、『立正安国論』の中に書いてあるように、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法(誤った教え)を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張したのでしょう。
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