大山阿夫利神社
大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。
標高は1251.7メートルで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独自峰となっている。
阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国御岳(国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤を共につとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1000年頃)の土器が片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。
仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として国幣の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武家の長久を祈った。
引目祭・簡粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが昔のままに伝承されている。
以上、案内板からの引用です。
案内板には以下のように記されています。
浄き明き直き象徴する神の恵の泉で湧き出るお水は、山内只一ヶ所の貴重な水源より引水いたしました。
最も清らかな尊いお水です。水は萬物の生々発展の原動力であります。
殖産の泉、長命延寿の泉としてご愛用ください。
「輝け杉の子」像の案内。
学童疎開は昭和一九年六月三○日に閣議決定。国民学校初等科三~六年生について実施された。川崎市は中・南部二四校の集団疎開先を中郡一四か町村(一部、川崎市北西部、津久井郡)に決定。 七、一00余名の該当児童のうち、その三、二00余名をこの大山に疎開させた。 すなわち平間、尚、富士見、旭町、玉川、宮前、御幸、大師、住吉の九校の児童は同年八月二一~二四日の間に川崎を出発。 翌年一○月、終戦による疎開解散に至るまでこの地で疎開生活を送った。この像は、名状し難い困苦の中から祖国の再建を期する当時の幼い子らの姿を現し、困難な中で引き受けられた全地域の方々への感謝と平和への誓いをこめて、当時の児童教職員、現教職員、一般市民、そして川崎市の協力によって疎開解散四○周年を記念して建立した。製作者は圓鍔元規氏である。最後に当地で爆死した米須清博君の霊の安からんことを切に祈る。
昭和六○(一九八五)年八月一五日
川崎市学童疎開記念碑建設実行委員会
となっています。
「輝け杉の子」の後ろに大天狗の碑があります。
碑は高さ3メートル幅1メートルの小松石を使用、台石は田中佐一郎、神保朋世の造型、石工は露木久吉、表面は民族融合の文字と正宗得三郎画伯の大天狗の姿、裏面には女流歌人田中御幸の歌一首と永遠に戦争の悲惨さを封じ込め、乾燥しきった都会悪の塵を洗う、原爆12年の日にと刻まれてあります。
案内板には、以下のように記されています。
天狗講初代総講元小生夢坊は敗戦後、米軍占領下で軽薄な世相が氾濫するのを憂えて大山の中腹に大天狗の碑建立を発願しました。
大仙は関東総鎮護の地、大天狗の邪悪を砕く不動の妙力で戦争反対、民族融合、平和を祈願、日本民族の心と未来を守ることを大山阿夫利神社目黒潔宮司、平塚市長戸川貞雄、東京作家クラブ、浅草の会等の有志と共に呼びかけました。
賛成した政・官・財・文化人・芸能人は700人を超え、1957年(昭和32年)5月27日、盛大に建立式典が行われました。
これを記念して毎年5月、社務局祈祷殿で前夜祭、碑前で平和祈願祭が催されます。
案内板には以下のように記されています。
阿夫利神社本殿の左側にある阿夫利神社の学問の神である菅原神社です。
菅原社は俗に天神様とも言われ、学問の神としてひろく崇敬されております菅原道真公、天菩日命(あめのほひのみこと)を御祭神としてお祀りされております。
当社の菅原社は亀戸天満宮の氏子であり、阿夫利神社崇敬講社である、堅川睦太刀講の手によ宋社氏神様の御分霊を奉歳して建立されたお社で、誠に神縁浅からぬ所であり神徳愈々光被いたしております。
学業成就、受験合格の御霊験にあやかりてご参拝下さい。
大山は、古くより霊験あらたかな神体山として崇敬を集めているお山でありましたため、明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日~8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていました。
登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっており、現在もその精神は連綿として継承されています。
その後、明治20年には登拝者の増加に伴い、春山開き大祭(当時は4月5日~15日) が新たに設けられ、この期間の山頂登拝が出来得ることとなり、山頂登拝の規制は徐々にゆるめられました。
更に、みのげ・日向・ヤビツ峠方面等の表参道以外よりの登山道が開かれると共に、昭和40年には国定公園に指定をされ登山者は急激に増加いたしましたので要望にこたえて、現在では年間を通して常時庶民の山として登拝門は開かれるようになりました。
然し、その結果は、必然的に登拝門の伝統的意義と性格が失われてまいりましたので、ここに往時をしのびつつ登拝門のもつ史跡としての重要性を考え合わせて、一枚の扉のみを閉じて片開きといたし、その名残をとどめることといたしました。
頂上の上社に向かう場合は、ここでお祓いしてから行くようです。
大山阿夫利神社のHPから
大山阿夫利神社の神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。
大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすことからこの名が起こったといわれ、標高は、1251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっています。
阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきました。
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいます。
山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っており、 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣(こくへい)の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運長久を祈られました。
引目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統に守られた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されており、全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの景色もすばらしく、多くの人達に親しまれ、常に参詣するひとが絶えません。
















