龍口寺
龍口寺は、境川を望む片瀬山にある日蓮宗のお寺です。これは本堂正面の写真です。江ノ電の江ノ島駅から徒歩3分くらいです。山門のすぐそばを江ノ電が走っており、車窓からも垣間見ることができます。
知らない間に公式HPが立ち上がっていました。
山号は、寂光山です。
これは法難に際して日蓮上人が「龍の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土(仏のいる極楽のような所)ともいふべきか」と申したことに由来しているといいます。
鎌倉時代、日蓮上人が幕吏の手によって処刑寸前のところを奇跡により危うく難をのがれた(龍口法難)という龍の口刑場跡に建立された「霊跡寺院」という変わった名が付いた寺院でもあります。
仁王門(仁王(金剛力士)の像を左右に安置した門のことです。寺の中に悪いものが入りこまないように置かれた門です。)の両脇に立っている仁王像の右側の方で、阿形像になります。
右と左の仁王像はそれぞれ作者が違います。
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットではVajradhara(ヴァジュラダラ)という。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。
阿吽(あうん)の呼吸の語源はここからきているとのこと。
本堂の緑青色の屋根と背景の木々の緑が朝日に映えて美しいです。龍口寺のあるこの片瀬山は、もともとは竜口山(たつのくちやま)と呼ばれていたらしい。その言われは、『天女と五頭(ごづ)竜』という伝説にあります。
五頭竜(ごづりゅう)は、伝承で神奈川県鎌倉市深沢に当時あった湖にすんでいたといわれる竜です。
あらゆる天変地異を引き起こすため、なだめるために十六人の子供がいた津村の長者の子供達も一人残らず五頭竜に捧げることとなりました。この地名は昔『子死越』と呼ばれていたが、それは五頭竜に捧げられた生贄の名残で、その後、今の地名は『腰越』となりました。
あるとき江ノ島が隆起し、そこに弁天様がすむことになりました。この地域を支配する五頭竜は一目惚れし、求婚したが、人間に対する残虐非道の行いを理由に断りました。五頭竜はしぶしぶ湖に一度帰った。しかし翌日に心を改め、人間を守ることを弁天に誓いました。
それからというものの五頭竜は日照時には雨を降らせ、嵐や台風の時には神通力を発揮して追い返しました。そのせいで五頭竜の神通力はなくなり、やがて山側に向かい、片瀬にある龍口山に化けてしまったということです。この山にある中腹には竜が口を開いた形をしたような岩があり、江ノ島の弁天を恋慕うようにみつめていたということです。そのため、後の民は竜を慰めるべく龍口山には竜に助けられた民が祭った龍口明神社を祭るようになったとのこと。なお、江ノ島には弁天様だけでなく竜神信仰もあることで有名です。
龍口という地名はこの地に残る五頭竜伝承にちなんでつけられたという。伝承によるとちょうど龍口のあたりが、五頭竜の頭部にあたるため「龍口」という名前がつけられたということです。
龍口は鎌倉時代後期ごろより刑場として史書に登場します。特に文永8年(1271年)9月12日に日蓮が処刑寸前に助命される事件(龍ノ口法難、日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わっている)は有名。ほかにも中先代の乱を起こした北条時行、大庭景親、源義経の首実験、1275年、前年の「文永の役」に関し国書を携えて来日し処刑された蒙古の使者杜世忠ら五人などを含む多くの者が処刑されたと伝られています。
※鎌倉時代初期~中期には龍口周辺の片瀬や腰越で処刑や首実検が行われた記録が残っています。龍口の刑場がこれら周辺での処刑とは別に設けられた物なのか、史書の表記揺れでいずれも龍口を指すものなのかはよくわかっていないようです。
敷地内の案内図です。現在のように本格的な寺としての格式を整えたのは津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601年)に土地を寄進して以来の事とされています。 江戸時代までは選任住職を置かず子院である片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していました。片瀬八ヶ寺の山号は全て龍口山で、以下のとおり。
龍口山本蓮寺(元大光山本圀寺末)、片瀬
龍口山常立寺(元身延山久遠寺末)、片瀬
龍口山本成寺(元妙厳山本覚寺末)、腰越
龍口山勧行寺(元経王山妙法華寺末)、腰越
龍口山妙典寺(元長興山妙本寺末)、腰越
龍口山東漸寺(元正中山法華経寺末)、腰越
龍口山本龍寺(元長興山妙本寺末)、腰越
龍口山法源寺(元正中山法華経寺末)、腰越
大書院です。昭和初年長野県(信濃国)松代藩の藩邸を移築、通称:養蚕御殿と呼ばれているようです。長野という土地柄、蚕を飼っていたのかもしれませんね。
この三重の屋根がすばらしいです。良く見ると鬼がわらに龍をデザインしています。
鬼瓦(おにがわら)は和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。鬼と略して呼ばれることもある。魔よけと装飾を目的とした役瓦の一つ。鬼の顔を模したものが中心だが、鬼が造られていないものもあり、シンプルな造形の「州浜」と呼ばれるものや蓮の華をあらわしたものある。ルーツは中国に見られ、日本では唐文化を積極的に取り入れだした奈良時代に始まり、急速に全国に普及した。寺院は勿論、一般家屋など比較的古い和式建築に多く見られるが、平成期以降に建てられた建築物には見られることが少なくなった。また、家紋や福の神がついている鬼瓦も多い。
鬼瓦を作る職人は、鬼師と呼ばれる。
日蓮聖人は法難のたびに奇跡的に危機を乗り越えていますが、最大の危機である”龍口法難”の際には奇跡としか考えられない現象が起こっています。
文永8年(1271年)日蓮聖人は自らが立正安国論での予言の実現が近いことに危機感を抱き、さらに激しく法華経への帰依を説き、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。
このことを幕府は政策への批判と解釈し、9月12日鎌倉松葉谷で説法中の日蓮聖人を逮捕、市中引き回しのうえ、龍口処刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬の龍口寺)に連行しました。
当時この処刑場に連れてこられた罪人はすべて斬首の刑に処されていたので、処刑役人は日蓮聖人を土牢から引き出し、斬首の準備を整え、あとは幕府からの使者の到着を待つばかりでした。
このとき時刻は翌13日の丑の刻(午前1時)、日蓮聖人は法華経の行者として死を迎えられるとはむしろ悦びであるとおっしゃり、大音声で題目を唱え、処刑の座についたと伝えられています。
そして伝説によればまさに処刑されようとしたとき江の島の方向から月のように輝くものが飛んできて、刀を三つに折り、処刑役人は目が眩み、その場に倒れ、兵士たちは恐れおののき、斬首の刑は中止されました。
世に言う”龍口法難”です。
山門表の 「竜口寺」の扁額です。龍の彫り物が目を引きます。江戸時代末期、1864(元治元)年築とのこと。
御霊窟です。龍口法難の時に日蓮上人が処刑を待つ間入れられた土牢です。毎月13日午前2時(法難が起きた日時)には夜中にもかかわらず、ここで法要が行われるという珍しい行事がとりおこなわれます。見学自由とのことなので一度機会があれば行ってみたいと思います。
五重塔です。
明治43年(1910年)竣工。木像の五重塔としては神奈川県で唯一のものとされています。塔の製作には竹中工務店が携わり、「神奈川建築物百選」に選定されています。この塔は日蓮の法難をしのび、報恩供養のために建てられたもので、塔内には仏祖三宝尊が安置されているとのこと。
棟札によれば、明治43年10月の上棟で、願主はこの寺の僧正藤原日迦、大工(棟札には匠長と書かれている)は名古屋の竹中和泉藤原正信、番匠として桜井佐太郎の名も見えます。五重だけは垂木を放射状に配置する禅宗様の形式とし、一重から四重までは伝統的な様式を採用しています。各重には高欄を付ける。全体として、伝統的な手法を用いた堂々とした塔となっています。
本道裏の狭い場所に建っているため、せっかくの威容をなかなか一望にできないのが残念です。
延寿の鐘とあり、延命長寿の寺としても有名です。お題目を唱えておつき下さいと書いてあるように自由につけるようです。日蓮宗のお寺なので、お題目は「南無阿弥陀仏」ではなく、「南無妙法蓮華経」ということになります。
除夜の鐘もつくことができるようです。23:00から整理券配布。グループ単位で108回までつけます。
本堂の裏山に登ると仏舎利があります。龍ノ口法難700年を記念し建立されたとのこと。
相模湾の海岸線がマンションであまり見えませんが、右手に江ノ島と灯台が見えます。
龍の口法難は、日蓮上人四大法難中屈指の霊跡とされています。因みに四大法難とは、龍の口法難のほかに松葉谷の焼き討ち、伊豆の流罪(40歳)、小松原(千葉)の襲撃です。

文永八年(一二七一)九月十二日、日蓮聖人に佐渡への流罪の刑が言い渡されます。
その道中、龍口という処刑場があり、流罪の費用もかかるので、そこで処刑にしてしまおうという事になりました。その処刑場に向う途中、当時の名で津村という所があり、一人の老婆が日蓮聖人に、ボタ餅の供養をささげました。故あって老婆は山の麓に小庵を結び、そこで生活をしていました。老婆が鎌倉へ出かける度に、聖人が辻で説法をしており、その教えを聴聞しているうち、老婆もお題目を唱えるようになりました。
老婆は聖人が龍口で処刑されると聞き、有難い聖人へ、今生最後の御供養にと小豆を煮たが、まだ煮えきらぬ間に聖人が路を通られたので、有り合せのごま塩を振りかけたボタ餅。
「形は塩餅なれど心はボタ餅」と思い、御供養された。差し出された聖人は「今末法に法華経の行者を供養する功徳は、百千万億倍に勝れたる御供養。日蓮と聞く者は仇み、見る者は怒る世の中に斯る御供養を受くる御苦心は日蓮生々世々、忘れ申さず。過分に存ずるぞ。志は確かに受け取ったり。某やがて帰り戻る時まで、そちに預け置くぞ」といい渡した。これを「首つなぎのボタ餅」といいます。
立正安国論(りっしょうあんこくろん)は、日蓮宗を開いた日蓮が文応元年(1260年)に得宗(元執権)北条時頼に提出するために撰述した文章。日蓮本人が文永6年(1269年)に筆写したとされる本が法華経寺にあり(国宝)、他にも直弟子などによる写本が多数伝わる。更に真言密教批判などを加えた増補本(「広本」)が本圀寺にある。
正嘉年間以来、地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次いだ。当時鎌倉にいた日蓮は立正安国論撰述の前年『守護国家論』を撰述したのに続いて、宗教家としての憂慮から政治・宗教のあるべき姿を当時鎌倉幕府の事実上の最高指導者である北条時頼に提示するために駿河国実相寺に籠って執筆した。後にこの書を持参して実際に時頼に提出している。
この中で日蓮は災害の原因を人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法(邪悪な教え)を信じているからであるとして対立宗派を非難し、法華経だけではなく鎮護国家の聖典とされた金光明最勝王経なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱、外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)、国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張したのである。
具体的には、当時の漁民に継承された蝦夷の哲学と法華経に秘められた数の奥義が一致することから、自然界の妙法を説いた法華経の正当性を説いたもの。なお、蝦夷の哲学とは、女性の大虫の周期が日の自転周期に一致する事から、その胎から生まれたなん人にも宇宙の理が備わり、日の恩恵を受けているという考え方。
この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。
ところが時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇の到来に至り、続いて国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇の対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。これを見た日蓮とその信者は立正安国論をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、以後も2回、合わせて3回の「国家諫暁」(権力者への助言)を行うことになる。
山門のすぐ近くをこのように江ノ電が走っています。龍口寺の門前から腰越の神戸橋まで、江ノ電は路面電車となります。これは昔も今も変わりません。ちょうどカーブになっていることもあるのか、特に龍口寺の門前は江ノ電を撮影する代表的なポイントで、休日にはアマチュアカメラマンの姿も目立ちます。
そして江ノ電の陰になっている場所に実物の江ノ電の先頭車両が看板となっている店があります。ここで江ノ電最中(1個130円)が売られています。
度々マスコミにも取り上げられる和菓子司 扇屋です。パッケージも江ノ電をモチーフにしており、もち米から作るサクッとした皮と5種類の餡が楽しめます。午前中に完売することもあるという人気の最中だそうですが、残念ながら、朝早かったので今日は買えませんでした。



