賀来神社神幸祭
祭囃子が聞こえてきたので覗きにいったら、地元の賀来神社の神幸祭でした。
囃子屋台で太鼓をたたく子どもたち。
神輿甚句を歌う女性。
神輿甚句を歌う少年。
昨日の片瀬諏訪神社の浜降式で歌っていた少年と同一人物のように思います。
上の女性と交互に歌っておりました。
担ぎ手たちです。
今年は、こんな小さな神輿も登場です。
祭囃子が聞こえてきたので覗きにいったら、地元の賀来神社の神幸祭でした。
囃子屋台で太鼓をたたく子どもたち。
神輿甚句を歌う女性。
神輿甚句を歌う少年。
昨日の片瀬諏訪神社の浜降式で歌っていた少年と同一人物のように思います。
上の女性と交互に歌っておりました。
担ぎ手たちです。
今年は、こんな小さな神輿も登場です。
例年、8月27日に行われる片瀬諏訪神社例大祭の浜降式を今年も見てきました。
片瀬諏訪神社を午前4時頃に出発した神輿と5町内の囃子屋台は、町内をめぐり、小田急線の片瀬江ノ島駅前を4 通って境川を渡り、R134号線のアンダーパスを抜けて、東浜に出ます。
右は、小田急線の片瀬江ノ島駅前を通過したところです。
R134号線のアンダーパスを抜けて、5台の屋台は並んで浜降式が終わるのを待ちます。
浜降式が始まるまでのしばらくの間は、賑やかなお囃子が続きます。
神主さんのお祓いをしてから、どっこいどっこいの掛け声とともに海に入っていきます。
褌少年により甚句が歌われます。
よく見るとこの少年は、去年の浜降式でも歌ってました。
賀来神社の神幸祭でも歌ってました。
どうも、以下のような甚句が歌われたようです。
年の初めの新玉の
松を楽しむ正月や
二月に咲いたる梅の花
三月盛りの八重桜
四月上より下がり藤
五月の梅雨に咲く花は
菖蒲名代に杜若
六月牡丹に蝶が舞う
七月野原に咲く萩に
照らす八月たもと脱ぎ
心地良く見る九月菊
十月紅葉に鳴く鹿の
十一月の垂れ柳
賀来神社の脇・江ノ電鵠沼駅西口前に藤沢市安全・安心ステーション(民間交番)があります。
賀来神社の社務所を「鵠沼地区安全・安心ステーション運営委員会」が借り受け、使用しているとのこと。この社務所は、昭和45年までは、神奈川県警の交番として使用されていましたが、その後、空き交番であったものを、地元の自治(町内)会が防犯活動の拠点施設として現在まで使用していたもので、この施設を改装し新たに安全・安心ステーションとしたものとのこと。
2008年12月に藤沢市第一号として設置されたとのことです。
運営を行っていくのは、3,475世帯が属する、鵠沼藤が谷会、ニコニコ自治会、五友会、東鵠睦会、柳小路町内会の5団体です。
旅館東屋(りょかんあずまや)は、1897年頃から1939年まで神奈川県鵠沼海岸にあった旅館で、多くの文人に愛され、「文士宿」の異名で知られています。名称は「東家」、「あづまや」とも表記されています。
鵠沼海岸駅の下りホームの階段の上り口にも案内板が設置されています。
地元の「鵠沼を語る会」が設置したようです。
ウィキペディア(Wikipedia)に詳細が記されています。
右の案内板には、以下の通り記されています。
明治後期から昭和初期にかけて、多くの文人が来遊した旅館『東屋』は、鵠沼のこの地にあった。記念碑の右側を正門として、海岸まで広がる約二万平方メートルの広々とした敷地に、松林と池を配し、本館および離が点在していた。
尾崎紅葉の硯友社の文人をはじめ、相次いで逗留した近代文学の旗手たちは、この宿で思索し、想を練り、執筆し、時には談笑し、それぞれの文学世界を創造した。志賀直哉、武者小路実篤らによる白樺派の揺籃の地でもあり、芥川龍之介の短編小説『蜃気楼』は、当時の鵠沼海岸の風景を幻想的に描いている。
旅館『東屋』は明治ニ五年頃、伊東将行・長谷川ゑいによって創業され、関東大震災にあうも再建され、戦時色の強まる昭和一四年に半世紀にわたる歴史を閉じた。 2001年3月 藤沢市教育委員会
東屋は遠い昔に廃業され、今は残っていませんが、足跡はわずかに残っています。
茶室、門柱、文人が利用した床屋などです。
東屋の亭(ちん) – 鵠沼唯一の茅葺き屋根として現存。某氏の茶室として利用され、谷崎潤一郎も好んで逗留したとのことです。今は、住宅として利用されているようです。
東屋海浜口の石畳 – 2005年11月に改修。
門柱跡に設置されたプレートです。
理容やながわ
近くの商店街にあります。
昭和15年10月創業、建物自体は関東大震災後、廃材を利用して建てられたもの。
かの有名な文豪芥川龍之介の小説「歯車」にも登場する。
「東海道の或る停車場」は現在のJR藤沢駅です。
「その奥の避暑地」は現在の藤沢市鵠沼。
「或る理髪店主人」は、この理髪店のことで現在でも営業していますが、主人は二代目になっています。
歯車
芥川龍之介一 レエン・コオト
僕は或知り人の結婚披露式(ひろうしき)につらなる為に鞄(かばん)を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは可也(かなり)怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。彼は棗(なつめ)のやうにまるまると肥つた、短い顋髯(あごひげ)の持ち主だつた。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。
「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るつて云ふんですが。」
「昼間でもね。」
僕は冬の西日の当つた向うの松山を眺めながら、善(い)い加減に調子を合せてゐた。
「尤(もつと)も天気の善い日には出ないさうです。一番多いのは雨のふる日だつて云ふんですが。」
「雨のふる日に濡れに来るんぢやないか?」
「御常談(ごじやうだん)で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だつて云ふんです。」
これが江ノ電鵠沼駅前、賀来神社境内にある「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」です。明治の中頃、大給(おぎゅう)子爵が、一面の砂原を25万坪、300坪1円で購入、日本で最初の計画的開発・分譲別荘地にしたようです。
この石碑には次のようなことが書いてあるようです。
湘南海岸一帯はその昔砥上が原と呼ばれ、鵠沼はその東南の隅にあります。海に向かって左側は片瀬、右側は辻堂です。南側は広々と海が拡がっていて、伊豆大島や三浦半島が望めます。西の方向には富士山が高く天にそびえ立ち、箱根・足柄や大山などの山々がその左右に連なっています。明治19(1886)年に埼玉県川越の伊東将行さんという人が、たまたまこの地にやって来て、あちらこちらと歩き回り、辺りを見回して「こここそ郊外生活の好適地だ」と考え、ここに移り住みました。土地(羽鳥)の人である三觜直吉さんと協力して、他から訪れる人々のために鵠沼館という旅館を創設しました。翌20(1887)年、今福元穎さん・三觜八郎右衛門さん・金子小左衛門さん・田中平八さん・齋藤六左衛門(鵠沼の旧名主で大地主)さんなどと相談して「武相倶楽部」をつくりました。将行さんは自らその部員になり、熱心にお客さんをたくさん呼ぶように努力しましたが、なかなかうまくいきませんでした。将行さんはそれにへこたれず、明治22(1889)年中野武営さん・中島行孝さん・伊藤幹一さんと海岸の開発に取り組みました。道路を通し、松の木を植え、家屋と庭を作るのに便利なように工夫しました。このようにして、その昔、広々とした砂地で、風が吹けば顔に砂が当たって痛かったような土地が、今は見渡す限り景色の素晴らしい場所となったため、ここに別荘を設ける上流階級や大金持ちが、年々増えてきました。蜂須賀茂承さん・益田孝さん・藤堂高紹さん・久松定謨さん・馬越恭平さん・高瀬三郎さん・郷誠之助さん・廣岡助五郎さん・山口寅之輔さん・佐藤長四郎さん・吉田嘉助さん・宮﨑寛愛さん・千葉恒次郎さん・小田柿捨次郎さん・田中銀之助さんというような人々が、代表的な人々です。将行さんは、ますますがんばって、明治25(1892)年に「東家(東屋とも書く)」というもう一つの旅館を営業しました。初めは小さかったのですが、だんだん増築して拡げていきました。建物はとても良くできていて大きく素晴らしかったのですが、贅沢すぎることはありませんでした。それぞれの建物の周りには松の木を植え、庭には池を掘って水を蓄えましたが、思わず手を入れたくなるほどきれいな水でした。旅館の前には波の打ち寄せる海岸を隔てて江の島が手に取るように望めます。何と贅沢な眺めでしょう。この旅館のように海や山の眺望が素晴らしいところは、他には余りないでしょう。その上客室が清潔で、魚料理がおいしく、もてなしが素晴らしいのです。この地の発展に伴って、この旅館の繁盛はとても評判になりました。寺尾亨さんが時折この地にやってきて、世間にその素晴らしさを言い広めました。いつも話していたのは、「鵠沼がこれまでこのように発展したのは、私が思うには将行さんの長年にわたる働きの結果なのであって、その業績を埋もれさせてはならない」ということです。その通りでしょう。ところが将行さんは今年の7月29日に病気で亡くなられました。亡くなったときの年齢は七十五歳です。孫の将治さんがその家督を継ぎ、仲間の長谷川欽一さんがその仕事を受け継ぎました。施設はみなそのままです。地元の有志は、その立派な仕事を褒めたたえ、みんなで相談して石碑を建て、この地鵠沼の開発を記念し、かねてこのことを後々まで伝えようということで、文章を書くことを私に頼んできました。私もそれに賛同し、そのためにそのあらましを原稿として書き記し、銘を書き残すことにしました。
www.hbirds.net