龍の口法難会
龍口寺で、9月11日~12日に行われた龍の口法難会(たつのくちほうなんえ)に行って来ました。
難除け牡丹餅撒きと万灯練供養が有名ですが、今回は11日の14時から仏舎利塔で行われた法要を見に行ってみました。
宝塔から下がっている布はお手綱と呼ばれていて、握るとご利益があるそうです。
龍口寺で、9月11日~12日に行われた龍の口法難会(たつのくちほうなんえ)に行って来ました。
難除け牡丹餅撒きと万灯練供養が有名ですが、今回は11日の14時から仏舎利塔で行われた法要を見に行ってみました。
宝塔から下がっている布はお手綱と呼ばれていて、握るとご利益があるそうです。
小動神社・天王祭 神幸祭の午後の部です。
午後は、江の島の八坂神社からの御神輿を龍口寺前でお迎えし、腰越通りを小動神社の御神輿と並んで小動神社に向います。
14時ちょっと前に龍口寺前で腰越地区の五ヶ町の役員が神主さんとともに並んで出迎えます。
藤沢方面から八坂神社の行列がやってきました。江の島から州鼻通りを通ってやってくるのでしょう。先導するのは、小動神社の囃子屋台二台です。
こちらは、神戸町の囃子屋台です。
次に土橋町の囃子屋台が続きます。江の島の八坂神社まで迎えに行って、連れてくるというシチュエーションなのでしょう。
錫杖(しゃくじょう)、小太鼓、三味線、横笛、大太鼓などが通りすぎてゆきます。
両御神輿の競演です。
「どっこい」、「どっこい」、「どっこいそーりゃ」の掛け声とともに両神輿が揺れます。
相州神輿甚句を肩車された子供が歌います。ボーイソプラノの良く通る声です。
初夏らしい花が咲いていました。
調べてみると、カイコウズまたはアメリカデイコと呼ばれる木らしい。
アメリカデイゴ(亜米利加梯梧、学名:Erythrina crista-galli)とはマメ科の落葉低木。和名はカイコウズ(海紅豆)。カイコウズの名はあまり使われず、アメリカデイゴと呼ばれることが多い。また、「アメリカデイコ」と「コ」が濁らないこともある。
デイゴは別種で沖縄県の県花。
龍口寺に寺領を寄進した腰越津村の玉縄北条氏の家臣で日蓮宗の信奉篤い島村采女はじめ、島村家代々の墓です。
龍口寺の本堂横の経八稲荷の側にあります。
龍口寺は、島村采女が慶長6年(1601年)に土地を寄進以来本格的な寺としての格式を整えたとのことです。
鎌倉市手広3丁目13には、三十番神宮という嶋村釆女が晩年に津に移り住み、隠居所の守護神として祀った社があるとのことなので、そのうち行ってみたい。
経八稲荷です。平成11年(1999)竣工。龍口寺の大檀越島村家に安置されていた地元の守護神である八体の稲荷のうちの一つ。江戸時代以来、ご神体として稲荷の木造を安置しているとのこと。
日蓮宗新聞[1999/02/20]
日蓮聖人龍口法難の霊場、神奈川県藤沢市・霊跡本山龍口寺(新倉日立貫首)で二月七日、経八稲荷堂落慶記念まつりが行われた。今年初場所で初優勝し新大関となった千代大海関(九重部屋)がゲストで訪れ、日の出の勢いの〝時の人〟を一目見ようと、万を越す参拝者が境内を埋め尽くした。
龍口明神社の隣には、経六稲荷があります。
龍口明神社の道ひとつ隔てたお隣に経六稲荷があります。表参道は駐車場になっています。
龍口明神社は、もともと龍口寺の西隣にあったものを遷宮したもの(今でも、旧社は残っています)ですが、きっとこの経六稲荷もいっしょに移したものなのでしょう。
不思議なことに龍口寺の境内には、経八稲荷が祀られており、「龍口寺の大檀越島村家に安置されていた地元の八体の守護神の一つ。経六は龍口明神社に安置されている。」とあります。
庚申塔が、青面金剛像が2基、庚申供養塔が2基、石の祠、そして丸みを帯びた石柱の計6基立っています。もと、手広と津村の境の庚申塚にあったものを移設したものです。
左端と4番目の2基は、双方とも上辺に日月を浮き彫りがされた合掌六手の青面金剛像で、左端の1基は、下部に三猿が彫られ、4番目の1基は邪鬼の上に立っており、それぞれ正徳3年(西暦1713年)と安永3年(西暦1774年)に建立されたようです。
2番目と3番目の供養塔の下方には三猿が彫られ、それぞれ文政11年西暦(1827年)、弘化5年西暦1848年)の1800年代に建立されたようですが、右側の2基の建立年代は分りませんでした。なお、右端の丸みを帯びた石柱には山王台権現の文字が彫られています。
龍口明神社は、鎌倉随一の古社です。
こちらは遷宮された新しい龍口明神社です。
遷宮の経緯は、以下のとおり(Wiki)です。
もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいたという。
大正12年 (1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年 (1933年)に龍口の在のままで改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転した。
なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、拝殿・鳥居なども、移転前の姿で残されている。
由緒は、龍口明神社のHPに以下のように記載されています。
欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。
養老七年(七ニ三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。
また、弘安五年(一ニ八ニ年)に一遍が龍の口にて念仏勧化を行った様子が、国宝『一遍聖絵』に描かれ、北条時政は江の島に参籠して、奇瑞を蒙り、龍の三つ鱗を授けられ、それを家紋としました(当社・江島神社の社紋も三つ鱗)。
いつの頃より六十年毎に還暦巳年祭が行われるようになり、近年では昭和四年・平成元年に賑々しく斎行されました。また、平成十三年には御鎮座千四百五十年祭が斎行され、この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されます。
龍口明神社は昭和五十三年、龍の胴に当たる現在の地に御遷座され、日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として人々に崇敬されています。
参道が折れていますが、折れた参道は、神社に奉られている怨霊が、外へ出られないようにするためのものだという考
えがあるようです。藤原時平の策謀により不遇の死をむかえ、大怨霊となった菅原道真が奉られる太宰府天満宮などで見られるとのことです。
9月12日は日蓮上人が龍の口刑場で首を刎ねられそうになるという法難があった日です。今年は、740年目に当たります。
法難会当日の早朝です。
誰ひとりいない静かな境内です。
半日後には、大混雑になります。
本堂です。
中央にさい銭箱があり、左右の上方に餅撒き台が梁に白い布で吊られています。この台から難除け牡丹餅が撒かれます。
ここからは、夕方以降の様子です。
本堂の手前で撒かれるのとは別にこのように販売もされています。クッキー版もあるようです。
アップで撮らせていただきました。
やはり700円するだけあって、撒かれるものより立派なぼた餅です。
ちなみに、鎌倉のぼたもち寺として有名な常栄寺では、同じような箱詰めが1,000円で販売されてました。
ぼたもち供養大法要の様子です。
大法要の前、17:40から説法が20分ほどあり、大法要は18時から始まります。最後に鎌倉のぼたもち寺である常栄寺の祭主から始まる焼香で法要が終わりになりますが、、終わったのは18:50頃でした。難除けぼた餅をゲットしたい人は、説法が始まるころから餅撒き台の周辺に集まっています。
確実に難除けぼた餅を入手するには、18:30過ぎに本堂内の餅撒き台の周辺に立っていたほうが確実と思われます。
大法要が終わったらいよいよ難除けぼたもち撒きが始まります。餅撒き台に梯子がかけられ、お坊さんほかが上ります。
次にお餅が台に上げられ、火打石でおまじない、大工の棟梁の一本締め、そして皆で「難妙法蓮華経」と三度唱えて餅まき開始です。
開始は19時数分前といった頃でしょうか、撒き始めると一分くらいで終わってしまいます。
お餅をゲットしようとする人々の大混雑のなか、空中キャッチは難しいです。床に落ちたのを拾うほうが確実でした。
難除けぼた餅撒きが終わった直後に、本堂から吐き出される人たちです。
拾う方が忙しくて、撒いている時の写真は撮る余裕がありませんでした。
取ったぼた餅はこんな感じで、ビニールの袋に親指大のもの二個ほどが小分けにされています。
袋から開けて、お皿に乗せてみました。常栄寺では、「頸つぎのぼた餅」をいただきましたが、引き続き「難除けぼた餅」を食べれば、御利益2倍というわけです。
あえて比べてみれば、常栄寺でいただいたぼた餅の方がおいしかったように思います。
ぼたもち供養大法要と難除けぼた餅撒きが終わると万灯練行列供養の始まりです。纏いに引き続き、万灯が奉納されます。
このようなカラフルな万灯もありました。
後ろの提灯には、「摩耶寺(まやじ)」と書かれています。調べてみると品川荏原の日蓮宗のお寺のようです。
門前は大混雑です。
ここは、江ノ電もすぐ近くを通過するところなので、交通整理が大変です。
沿道に夜店もたくさん出ています。
歩道の歩行が大変になるほどの人出です。
お店はやはり食べ物やさんが圧倒的に多いような気がします。
近くに住んでいながら、今回初めてきてみましたが、とにもかくにも、この地域最大のお祭りというのも体感し納得しました。
常栄寺は日蓮宗のお寺で、妙本寺の右手を数分歩いた路地沿いにあります。
うっかりすると見過ごしてしまいそうです。
常栄寺の創建は1606年(慶長11年)、寺号は尼の法号「妙常日栄」にちなんだもの。日蓮が法難に遭った9月12日には、「ぼたもち供養」(龍口法難会)が行われています。
本尊は三宝祖師、両脇に鬼子母神像、桟敷尼像を安置しています。
かって源頼朝が寺の裏山に由比ヶ浜で行った「千羽鶴の放生会」を観覧するために桟敷(さじき、展望台)を設けたことから、のちに住んでいた尼は桟敷尼(さじきに)と呼ばれた。その尼が、幕府に反抗して捕らえられた日蓮が龍ノ口の刑場に連れて行かれる際、ごまのぼた餅をあげたことから、通称、ぼたもち寺と言われています。
◎桟敷の尼
桟敷とは、源頼朝が由比ヶ浜で行った「千羽鶴の放生会」を観覧するために設けられた展望台で、尼はその管理をしていたという。1203年(建仁3年)に起こった比企氏の乱によって滅びた比企能員の夫人の妹という説がある。
腰越の法源寺も「ぼたもち寺」と呼ばれるが、尼の実家の菩提寺であることから、尼にちなんで「ぼたもち寺」と呼ばれるようになったといわれる。
同じ腰越の本龍寺は、法源寺と開山が同じであることから兄弟寺と呼ばれているが、ここには比企高家の墓がある。この人物は比企能員の子で大学三郎かと考えられている(参考:龍口寺輪番八ヶ寺 妙本寺 鎌倉と日蓮)。
墓の前にある塚本柳斉の歌碑です。
これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみにし所
歌の作者・塚本柳斉は本名・塚本松之助といい、明治12年(1879)、千葉県に生れ、東京の哲学館(現・東洋大学)に入ったが、後、二松学舎に転じて卒業した。明治四十五年頃から豊島師範の国語・漢文の教師となり、約25年間教え、この間に多くの人の伝記を漢文で書いた。昭和14年(1939)に鎌倉由比ヶ浜に移住し、41年11月、88才で亡くなり妙本寺に葬られた。
その後日蓮は、奇跡的に処刑を免れたことから、「頸つぎのぼた餅」という逸話が生まれ、「御首継ぎに胡麻の餅」といわれるようになりました。
山門には龍口寺法難会のポスターが貼られていました。
9月12日の18時と深夜0時に、龍口寺ではぼたもち撒きが行われます。
本堂の左手に龍口法難の縁起が書かれてました。
龍口刑場で日蓮上人が首を刎ねられそうになった時、江ノ島方向からの光によって奇跡的に生還することができたそうです。
山門の左手です。
「たつのくち くびのおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち常栄寺」と書かれています。
山門の上です。
「これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみにし所」と書かれています。
扉の左は「日蓮宗橘」という名の紋で、周りを井桁で囲まれているので「井桁に橘」とも呼びます。
右の扉には、源頼朝の家紋とされる笹竜胆(ササリンドウ)の紋となっています。
※「笹竜胆(ササリンドウ)紋」
村上源氏の家紋とされています。清和源氏の源頼朝が使ったという資料はないものの、江戸時代から「源氏の家紋」とされているそうです。
今日は、日蓮が法難に会った9月12日ですが、山門をくぐると右手にテントが用意され、参拝客に緑茶とぼた餅が振舞われていました。ぼた餅は、1000円で販売もされてました。
こちらが、振舞われた「頸つぎのぼた餅」です。
9月12日 9:00~16:00に振舞われます。
本堂右手の頸つぎのぼた餅の縁起です。
囚われの身になった日蓮上人が龍ノ口の刑場に送られる途中桟敷の尼が仏の加護を願いごまのぼた餅を献上しているところです。
◎ぼた餅とおはぎの違い
どちらもお彼岸に供えるものですが、季節の花になぞらえて、春のお彼岸に供えるのは牡丹餅、秋のお彼岸に供えるのはお萩と呼んだ。
ぼた餅は、牡丹餅が訛り、いつのまにかそう呼ばれるようになったそうです。
例年9月11日~9月13日、藤沢市龍口寺で『法難会』が開催されます。
龍口寺は、「立正安国論」を唱えた日蓮聖人が法難にあった地であり、その昔、鎌倉の外れにあって、龍の口刑場があった場所に建っています。
上人が文永8年(1271年)9月12日にこの刑場に引き立てられ、いざ処刑というときに江ノ島の方から光が輝いて斬首役人の目をくらませ、日蓮は危ういところで斬首から逃れることができましたが(刑場に送られた人のなかで助かったのは日蓮一人だけということです)、これを龍の口法難といいます。
9月11日~13日にかけて盛大な法要が営まれ、万灯籠数十基が灯され、門前には夜店が並び、厄除けぼた餅が撒かれます。
境内にはこのようなポスターも貼られてました。
厄除けぼた餅撒きは、12日の18時と24時に行われるようです。
ぼた餅撒きは、日蓮上人が龍の口の刑場へ引き立てられて行く時に、桟敷尼・妙常日栄が仏の加護を願って胡麻のぼたもちを差し上げたところ、その法難を避けられたという故事に由来する。
このぼた餅を食べると年中無事のご利益があるといわれているので、12日は貰いに行ってこようと思います。
藤沢七福神の残りの二寺社の江島神社と龍口寺を走ってめぐりました。
自宅から海沿いの遊歩道を通って、江ノ島に行き、すばな通りを通って龍口寺に向かうコースです。
これは弁天様かな。
良く見ると龍もいます。
龍神です。
弁天様と龍神には深い関係があり、詳細は、江ノ島縁起の天女と五頭竜伝説にあるとおりです。
●天女と五頭龍の物語
昔、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭を持つ悪龍が住んでいて、山崩れや洪水を起こして村人を苦しめ、子供を生贄にとることからこの地を「子死越(こしごえ)」と呼んでいました。
あるとき、子死越前方の海上に何日にも渡って密雲が垂れ込め、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何も無かった海上に、一つの島が出来ていました。これが江ノ島です。
天女の美しさに魅せられた龍は、結婚を申し込みますが、悪行が止むまではと断られました。以後、龍は悪行を止め、天女と結婚することができたということです。天女は江ノ島の弁財天、龍は腰越の龍口明神社として海を隔てて祀られています。
江の島弁天橋にもこのような立派な龍の彫り物があります。
日蓮上人の法難で有名な龍口寺です。
龍口明神社の旧社は、龍口寺の隣にあります。
お正月なのでついでに鐘をついてきました。
南無妙法蓮華経と唱えてから、優しくつきます。
龍口寺の入り口に建っている刑場跡地の碑です。刑場とは、処刑場のことで主に政治犯がこの地で処刑されたようです。
特に文永8年(1271年)9月12日に日蓮が処刑寸前に助命される事件(龍ノ口法難、日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わっている)は有名です。ほかにも元の使者杜世忠や、中先代の乱を起こした北条時行もこの地で処刑された記録が残っています。
源頼朝が鎌倉に入ると、その裏鬼門方向の「七里結界」の外側にあったこの地は外縁としての位置づけが与えられ、処刑場となったようです。
ここの刑死者の遺骸は近くの常立寺に葬られたようです。杜世忠ら元使5名も常立寺に眠っています。
「七里結界」とは、密教で、魔障の侵入を防ぐために、7里四方に境界を設けること。
鶴ヶ岡八幡を起点にして裏鬼門(南西)方向の七里(浜七里)が腰越までです。その腰越が鎌倉(頼朝にとって)の精神的結界であり、その境界の外である龍口に刑場を設けたのでしょうか。
鎌倉と隣接する横浜市栄区に「野七里」という地名がある。地図で見ると、鶴岡八幡宮を中心に北東に野七里、南西に七里ケ浜がある。・・・二カ所は明らかに鬼門の艮(うしとら=北東)と裏鬼門の坤(ひつじさる=南西)の方角に位置する。つまり二つの七里は仏説の「七里結界」(魔障を防ぐ境界)を想定した「野七里」と「浜七里」の名残なのだ・・・
横浜市のHPによると、町名の由来は以下のように書かれており、七里結界とはまったく無縁のようですが・・・。
野七里一丁目・二丁目(のしちり) [昭和59年7月23日設置、住居表示]
昭和59年の住居表示施行に伴い、上郷町の一部から新設された町です。昭和61年11月3日の行政区再編成に伴い、(旧)戸塚区から編入されました。町名は字名を採りました。この辺を切り開いて沢山の田畑が長く続いたので、「箱根八里」に因(ちな)んで「野七里」と呼ぶようになりました。
元使五人塚と枝垂れ梅で有名な龍口山常立寺です。当初は「回向寺(えこうじ)」という真言宗の寺院だったそうですが、1532年に日豪により日蓮宗の寺院となりました。
日蓮宗の龍口山・常立寺は、總寺院・龍口寺を護る寺の一つになっていて周囲に八ヵ寺(本蓮寺・常立寺・東斬寺・勧行寺・本龍寺・妙典寺・本成寺・法源寺)があります。
「元使塚」です。これは、大正15年に時の住職によって建てられたそうです。
元使とは、元(現在のモンゴル)から派遣された特使のこと。歴史で有名な元寇(文永、弘安の役)の際に、元の皇帝からの国書(降伏勧告)を持って、日本に来ましたが、スパイ容疑をかけられて時の鎌倉幕府の執権北条時宗により、龍口刑場(現在の龍口寺のある場所)で処刑されました。
元使構成員は、杜世忠(モンゴル人)はじめ、イスラム、中国(2名)、通訳の高麗人の5名でした。
o 正使:杜世忠(34歳・蒙古人)
o 副使:何文著(38歳・唐人)
o 計議官:撤都魯丁(32歳・ウイグル人)
o 書状官:果(32歳・ウイグル人)
o 通訳:徐賛(32歳・高麗国人)
皆、30代の若さです。
石碑には「杜世忠」の辞世の句『出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機』 が刻まれています。
門を出ずるに妻子は寒衣を贈り
我に問う、西行幾日にして帰ると
来る時もし黄金の印を帯びたれば
蘇奏を見て機を下らざるなかれと
「家を出る時、妻子は寒さを凌ぐ衣服を自分に贈ってくれ、西行(日本)からいつ帰ってくるのか、もし、首尾よく帰って来たならば、蘇秦の例のように機織の手を休めないということことはないでしょうと言っていた」
日本との交渉に首尾よく成功すれば、故郷に残した妻子が暖かく迎えてくれるはずだったのに、遠い異国の地で処刑されてしまう無念を詠んだのだと思われます。
黄金の印を帯びるとは、日本との交渉に成功して出世することを言う。
蘇秦は、中国の戦国時代の遊説家(縦横家)で洛陽の人。合従(がっしょう)説が有名。合従とは、中国の戦国時代に考えられた外交政策のひとつで、戦国七雄のうち、秦以外の六国が縦(たて、従)に同盟することをいう。
蘇秦は洛陽から斉に行き、張儀と共に鬼谷子に縦横の術を学んだ。その後、諸国を放浪し、君主を説いて回ったが中々受け入れてもらえず、困窮して郷里に帰った所を親族に嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、元々彼のことを周囲が知っていて断られた。次に秦に向かい、恵王に進言したが、受け入れられなかった。これは当時秦では商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士が好まれなかったためと言われる。
「蘇奏を見て機を下らざるなかれ」とは、このように蘇秦が君主を説いて回るのに失敗し、困窮して故郷に帰ったとき、妻は機織りの手すら休めなかったという故事を踏まえ、そのような冷たい仕打ちはしないよということ。
しかし、文脈としてはちょっとおかしいですね。たとえ黄金の印を帯びずに帰ってきても、蘇奏の故事のようにはしないよという方が、しっくりきますが・・・・。漢文の読み方を間違っているのかも。どなたか詳しい方がいれば教えてください。
なお、「杜世忠」と共に処刑された副使「河文著」と通訳「徐賛」の辞世の句も境内にあるようです。
五輪塔5基には、モンゴル式にハタクという青い布を供養塔に巻いて供養しています。
青色はモンゴル民族に愛されている天空の色であり、成吉思汗の時代にも青い旗が使用されていたそうで、英雄を表わす色だそうです。
「蒼く深く澄み切った空。雲はなく、飛行機も鳥の姿も見えない」そんなモンゴル独特の空の色を、モンゴリアンブルーというのだそうです。
下の共同通信の記事のように、モンゴルの供養の習わしということです。
来日中のモンゴルのエンフバヤル大統領が1日、神奈川県藤沢市の常立寺を訪れ、鎌倉時代の元寇の際、元のフビライハンの国書を携え日本へ派遣されて、処刑された5人の使者を供養する「元使塚」を参拝した。 モンゴルの高僧らを伴って訪問した大統領は、焼香した後、モンゴルの習わしに従ってハタクという青い布を供養塔に巻き、手を合わせた。同寺の住職の説明に熱心に耳を傾け、塔の横に梅の木を植樹し、水をかけた。 同寺によると元使塚は、1275年に幕府の執権北条時宗によって、近くの龍の口刑場で処刑された元の使者杜世忠)ら5人の供養塔。 同行した大統領夫人は「長年供養してくださりありがとうございます」と住職に声を掛けていた。 2007/03/01 【共同通信】より
これは、常立寺での大相撲のモンゴル力士の記念写真です。
毎年、4月に行われる大相撲の藤沢場所の際、モンゴル国大使、モンゴル国力士団と共に、朝青龍、白鵬らが墓参し、ハタクを新調するそうです。
毎日新聞の記事
4月8日に開催される「第15回大相撲藤沢場所」を前に、新大関となった白鵬らモンゴル力士13人が7日、元寇(1274年)の翌年に鎌倉幕府に処刑された元の使節5人が眠る常立寺(藤沢市片瀬)を参拝した。元の皇帝、フビライ・ハーンは5人を日本に派遣し、幕府に降伏を要求したが、執権の北条時宗は拒否し、使節団を同寺近くの刑場で処刑した。遺体は同寺に埋葬され、墓石は「元使五人塚」と呼ばれるようになった。参拝予定だった横綱、朝青龍は都合で欠席したが、白鵬らが現れると、境内に詰めかけた観客から大きな歓声が上がった。力士たちは神妙な面持ちで、次々と墓に手を合わせた。墓参を終えた白鵬は「(墓の中で眠る方も)私たちが来て、喜んでくれたと思う」と静かに話した。
直接、関係ないですが、モンゴリアンブルーとは、蒙古斑のことでもあるようです。
雑学として、「ケツが青い」が蒙古斑から来ている事実を認識しました。
日本人の75%が新生児の時に蒙古斑を持って生まれてくるのも、遠い遠い遠い先祖の血が大陸に由来するからとも言われています。
蒙古斑はモンゴル人や他の東アジア・東南アジアの民族(日本人、中国人、ブータン人、韓国・朝鮮人、インドネシア人等)やアメリカ州の先住民族といったモンゴロイド系で一般的である。また、黒人の乳幼児の臀部の真皮にも、高率に同様の蒙古斑細胞の発色がみられる。しかし既に表皮に移動済みのメラノサイトが産生するメラニンが黄色人種に比べて多い(=肌の色が濃い)ため、蒙古斑が不明瞭になっている。発生率はモンゴル人の幼児で95%、他の東アジア人の幼児で80%、ヒスパニック系の幼児で40~50%、インド・ヨーロッパ語族の幼児で1~10%と言われている。
蒙古斑が乳幼児の臀部に出現することから、人(特に子どもや若者)が未熟であることを揶揄して、比喩的に「ケツが青い」という表現がなされる。
誰姿森(タガスガノ森)元使塚と書かれています。刑場である龍口は誰姿森と呼ばれていたそうです。
なぜ、日蓮宗の寺にこのような元寇がらみの元使塚があるのかは、日蓮の立正安国論にも関連があり、元使殺害の評価については、日蓮が批判していたこともあって、その霊を弔うためだったと思われます。
境内にある六地蔵です。
六道とは天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄のこと。お地蔵さんは我が身を六つに分かちて各々の辻に立ち、艱難辛苦から迷える衆生を救済してくれると信じられるようになったとのことです。結界の地でもある寺院の境内や墓地の入口などはその六道に通ずる辻と見做されて、六地蔵が祀られるようになったようです。
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本侵攻を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。
それは、
* 日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。
* ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。
威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。
一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。
近年有力視されている意見としては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いのときのみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである。[要出典]
近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている[21]。『元史』日本伝 至元十八年正月および二月(1281年1月22日 – 3月20日)条によると、クビライは遠征に先立って大都に遠征軍の指揮官である阿剌罕、范文虎、忻都、洪茶丘らを召集し勅を下しているが、そのなかで「朕、漢人の言に聞くに、『人の家、国を取るには百姓土地を得んと欲す。もし尽く百姓を殺さば徒に地を得るも何に用いん』」とも述べており[22]、このため、弘安の役で戦争に勝利した暁には屯田を目的として長期的な日本の占領・支配することを意図していたのではないかと考えられている。これをもって侵攻の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、旧南宋の兵員からなる江南軍10万人は軍隊兼移民団だったのでは、と言う見解も出されている。[23]
蒙古国書・元使殺害
元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね他の歴代中国王朝の国書と比べて驚くほど低姿勢であると見ているのに対して、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。
ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡愚童訓』には「此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。」とあり[29]、『元史』世祖本紀 至元十年六月戊申(1273年7月13日)条にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上。」とある。趙良弼はほぼ一年間太宰府に留まっていたが、趙良弼伝にもあるように、その間「日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗、産物」などといった具体的な国情について現地で情報収拾を行い、帰還して後にこれらを報告書にしたためてクビライに提出していた。(ただ、趙良弼自身は日本遠征についてのクビライの諮問に対しては、住人の風俗や性格は悪く、地勢も山水が多く耕作が困難であるため富みを得られず、渡海も困難であるため、遠征は無益である旨を奏上している[30]) こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。
元使殺害の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙であると評価する論者と、元の2回目の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。
(国書の原文)
上天眷命
大蒙古皇帝奉書
日本國王朕惟自古小國之君境土相接尚務講
信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異域畏威懐徳者不
可悉數朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑
即令罷兵還其疆域反其旄倪高麗君臣感戴來
朝義雖君臣而歡若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之東藩也日本密邇
高麗開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘
之使以通和好尚恐
王國知之未審故特遣使持書布告朕志冀自
今以往通問結好以相親睦且聖人以四海爲家
不相通好豈一家之理哉以至用兵夫孰所好
王其圖之不宣
至元三年八月 日(国書の意訳文)
天の慈しみを受けて最高の位についた、
大蒙古国の皇帝が、書を、
日本の国王に送る。
朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは
修好につとめるものである。
ましてや、朕の
先祖は、天の命によって世界の所有者となっている。
遠方の異国でも朕の威力を畏れ徳を慕うものは数え
切れないほどである。
朕が即位したばかりのころ、高麗(朝鮮半島)の民
が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、
老人と子供を故郷に帰らせた。
高麗は感謝して朝貢に来た。
朕と高麗とは、君と臣の関係だが、喜びあうこと
は父子のような間柄である。
おまえやおまえの重臣、その家臣たち(*)も、この事は知っているであろう。
高麗は朕の東方の属国である。
日本は高麗に接した国で、建国以来しばしば中国に
朝貢に来た。
ところが、朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。
おそらくは、
おまえの国は世界の情勢を知らないのであろう。
したがって使いを派遣し、国書を持たせて、
朕の意思を知らせる。
いまから親交を結ぼうではないか。
聖人は世界を一家と考える。
親交を結ばないのは、一家とは言えないことである。
朕も軍事力を使いたくはない。
よく考えなさい。
それでは・・・。
至元三年八月日
学習院の游泳訓練場の宿泊所
1891年(明治24年)、学習院が隅田川にあった游泳訓練場を川口村片瀬に移す。1904年(明治37年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、9棟)が翌年にかけて竣工し、3年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。
志賀直哉/初出「朱欒」(明治45・2)に「十三の夏、学習院の初等科を卒業して、片瀬の水泳に行つて居た。常立寺の本堂が幼年部の宿舎になつて居た。」とあるように、学習院の游泳訓練場の宿泊所としても使われ、志賀直哉のほかにも武者小路実篤、里見惇等が滞在したところとのこと。
寄宿舎完成までの明治24年~明治36年までの間、常立寺等の周辺の寺院が宿舎として使われたようです。
龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っている旧龍口明神社です。538年創建と伝えられ鎌倉で最も古いものです。旧社とあるように、現在の新社は龍の胴にあたる湘南モノレール西鎌倉駅より徒歩約10分の新鎌倉山住宅地の急傾斜の途中に遷宮されています。遷宮にあたっては、鎌倉時代には刑場(龍口刑場)として使用された時期もあったため、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいました。安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われたのも、そのような背景からかもしれません。
大正12年 (1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年 (1933年)に龍口の在のままで改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる地へと移転したとのことです。
写真に見られるように社殿には立ち入りできないようになっており、すっかり廃社となっており、うらぶれたたたずまいになっています。
移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、拝殿・鳥居なども、移転前のこのような姿で残されています。屋根の下に立派な龍の彫り物があり、弁天様が居る江ノ島方向を向いています。
江島縁起からすれば、江ノ島に相対するこの地にあってこその龍口明神社であり、移転は残念なような気がします。
遷宮の理由は以下のようになっています。
※この龍口明神社は、龍口にあたる龍口明神社にありましたが、そこが藤沢市片瀬にある鎌倉の飛び地であることから昭和 53年(1978年)に現在地に移されました。
江島縁起
伝説によれば、鎌倉には昔、五つの頭を持つ龍がいて悪行を重ねていました。そこへ弁財天が天から舞い降り、天女に恋心を抱く五頭龍を諭し、悪行をやめさせました。この五頭龍をまつるのが龍口明神社です。その後、五頭龍は海を離れ、山に姿を変えました。これが現在の藤沢市龍口山です。そして、天女の天下りとともに出現した島が現在の江ノ島。天女は江島神社に奉られている弁財天です。江島神社には弁財天堂があり裸弁財天像が奉られています。
立ち入り防止の柵には、右のような由来が書かれています。
これによると創建は552年となっており、創建年次には二つの説があるようです。
ちなみに552年は江島神社の創建の年でもあり、両社の縁が深いことからこのような説があるのかもしれません。
龍口寺は、境川を望む片瀬山にある日蓮宗のお寺です。これは本堂正面の写真です。江ノ電の江ノ島駅から徒歩3分くらいです。山門のすぐそばを江ノ電が走っており、車窓からも垣間見ることができます。
知らない間に公式HPが立ち上がっていました。
山号は、寂光山です。
これは法難に際して日蓮上人が「龍の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土(仏のいる極楽のような所)ともいふべきか」と申したことに由来しているといいます。
鎌倉時代、日蓮上人が幕吏の手によって処刑寸前のところを奇跡により危うく難をのがれた(龍口法難)という龍の口刑場跡に建立された「霊跡寺院」という変わった名が付いた寺院でもあります。
仁王門(仁王(金剛力士)の像を左右に安置した門のことです。寺の中に悪いものが入りこまないように置かれた門です。)の両脇に立っている仁王像の右側の方で、阿形像になります。
右と左の仁王像はそれぞれ作者が違います。
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットではVajradhara(ヴァジュラダラ)という。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。
阿吽(あうん)の呼吸の語源はここからきているとのこと。
本堂の緑青色の屋根と背景の木々の緑が朝日に映えて美しいです。龍口寺のあるこの片瀬山は、もともとは竜口山(たつのくちやま)と呼ばれていたらしい。その言われは、『天女と五頭(ごづ)竜』という伝説にあります。
五頭竜(ごづりゅう)は、伝承で神奈川県鎌倉市深沢に当時あった湖にすんでいたといわれる竜です。
あらゆる天変地異を引き起こすため、なだめるために十六人の子供がいた津村の長者の子供達も一人残らず五頭竜に捧げることとなりました。この地名は昔『子死越』と呼ばれていたが、それは五頭竜に捧げられた生贄の名残で、その後、今の地名は『腰越』となりました。
あるとき江ノ島が隆起し、そこに弁天様がすむことになりました。この地域を支配する五頭竜は一目惚れし、求婚したが、人間に対する残虐非道の行いを理由に断りました。五頭竜はしぶしぶ湖に一度帰った。しかし翌日に心を改め、人間を守ることを弁天に誓いました。
それからというものの五頭竜は日照時には雨を降らせ、嵐や台風の時には神通力を発揮して追い返しました。そのせいで五頭竜の神通力はなくなり、やがて山側に向かい、片瀬にある龍口山に化けてしまったということです。この山にある中腹には竜が口を開いた形をしたような岩があり、江ノ島の弁天を恋慕うようにみつめていたということです。そのため、後の民は竜を慰めるべく龍口山には竜に助けられた民が祭った龍口明神社を祭るようになったとのこと。なお、江ノ島には弁天様だけでなく竜神信仰もあることで有名です。
龍口という地名はこの地に残る五頭竜伝承にちなんでつけられたという。伝承によるとちょうど龍口のあたりが、五頭竜の頭部にあたるため「龍口」という名前がつけられたということです。
龍口は鎌倉時代後期ごろより刑場として史書に登場します。特に文永8年(1271年)9月12日に日蓮が処刑寸前に助命される事件(龍ノ口法難、日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わっている)は有名。ほかにも中先代の乱を起こした北条時行、大庭景親、源義経の首実験、1275年、前年の「文永の役」に関し国書を携えて来日し処刑された蒙古の使者杜世忠ら五人などを含む多くの者が処刑されたと伝られています。
※鎌倉時代初期~中期には龍口周辺の片瀬や腰越で処刑や首実検が行われた記録が残っています。龍口の刑場がこれら周辺での処刑とは別に設けられた物なのか、史書の表記揺れでいずれも龍口を指すものなのかはよくわかっていないようです。
敷地内の案内図です。現在のように本格的な寺としての格式を整えたのは津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601年)に土地を寄進して以来の事とされています。 江戸時代までは選任住職を置かず子院である片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していました。片瀬八ヶ寺の山号は全て龍口山で、以下のとおり。
龍口山本蓮寺(元大光山本圀寺末)、片瀬
龍口山常立寺(元身延山久遠寺末)、片瀬
龍口山本成寺(元妙厳山本覚寺末)、腰越
龍口山勧行寺(元経王山妙法華寺末)、腰越
龍口山妙典寺(元長興山妙本寺末)、腰越
龍口山東漸寺(元正中山法華経寺末)、腰越
龍口山本龍寺(元長興山妙本寺末)、腰越
龍口山法源寺(元正中山法華経寺末)、腰越
大書院です。昭和初年長野県(信濃国)松代藩の藩邸を移築、通称:養蚕御殿と呼ばれているようです。長野という土地柄、蚕を飼っていたのかもしれませんね。
この三重の屋根がすばらしいです。良く見ると鬼がわらに龍をデザインしています。
鬼瓦(おにがわら)は和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。鬼と略して呼ばれることもある。魔よけと装飾を目的とした役瓦の一つ。鬼の顔を模したものが中心だが、鬼が造られていないものもあり、シンプルな造形の「州浜」と呼ばれるものや蓮の華をあらわしたものある。ルーツは中国に見られ、日本では唐文化を積極的に取り入れだした奈良時代に始まり、急速に全国に普及した。寺院は勿論、一般家屋など比較的古い和式建築に多く見られるが、平成期以降に建てられた建築物には見られることが少なくなった。また、家紋や福の神がついている鬼瓦も多い。
鬼瓦を作る職人は、鬼師と呼ばれる。
日蓮聖人は法難のたびに奇跡的に危機を乗り越えていますが、最大の危機である”龍口法難”の際には奇跡としか考えられない現象が起こっています。
文永8年(1271年)日蓮聖人は自らが立正安国論での予言の実現が近いことに危機感を抱き、さらに激しく法華経への帰依を説き、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。
このことを幕府は政策への批判と解釈し、9月12日鎌倉松葉谷で説法中の日蓮聖人を逮捕、市中引き回しのうえ、龍口処刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬の龍口寺)に連行しました。
当時この処刑場に連れてこられた罪人はすべて斬首の刑に処されていたので、処刑役人は日蓮聖人を土牢から引き出し、斬首の準備を整え、あとは幕府からの使者の到着を待つばかりでした。
このとき時刻は翌13日の丑の刻(午前1時)、日蓮聖人は法華経の行者として死を迎えられるとはむしろ悦びであるとおっしゃり、大音声で題目を唱え、処刑の座についたと伝えられています。
そして伝説によればまさに処刑されようとしたとき江の島の方向から月のように輝くものが飛んできて、刀を三つに折り、処刑役人は目が眩み、その場に倒れ、兵士たちは恐れおののき、斬首の刑は中止されました。
世に言う”龍口法難”です。
山門表の 「竜口寺」の扁額です。龍の彫り物が目を引きます。江戸時代末期、1864(元治元)年築とのこと。
御霊窟です。龍口法難の時に日蓮上人が処刑を待つ間入れられた土牢です。毎月13日午前2時(法難が起きた日時)には夜中にもかかわらず、ここで法要が行われるという珍しい行事がとりおこなわれます。見学自由とのことなので一度機会があれば行ってみたいと思います。
五重塔です。
明治43年(1910年)竣工。木像の五重塔としては神奈川県で唯一のものとされています。塔の製作には竹中工務店が携わり、「神奈川建築物百選」に選定されています。この塔は日蓮の法難をしのび、報恩供養のために建てられたもので、塔内には仏祖三宝尊が安置されているとのこと。
棟札によれば、明治43年10月の上棟で、願主はこの寺の僧正藤原日迦、大工(棟札には匠長と書かれている)は名古屋の竹中和泉藤原正信、番匠として桜井佐太郎の名も見えます。五重だけは垂木を放射状に配置する禅宗様の形式とし、一重から四重までは伝統的な様式を採用しています。各重には高欄を付ける。全体として、伝統的な手法を用いた堂々とした塔となっています。
本道裏の狭い場所に建っているため、せっかくの威容をなかなか一望にできないのが残念です。
延寿の鐘とあり、延命長寿の寺としても有名です。お題目を唱えておつき下さいと書いてあるように自由につけるようです。日蓮宗のお寺なので、お題目は「南無阿弥陀仏」ではなく、「南無妙法蓮華経」ということになります。
除夜の鐘もつくことができるようです。23:00から整理券配布。グループ単位で108回までつけます。
本堂の裏山に登ると仏舎利があります。龍ノ口法難700年を記念し建立されたとのこと。
相模湾の海岸線がマンションであまり見えませんが、右手に江ノ島と灯台が見えます。
龍の口法難は、日蓮上人四大法難中屈指の霊跡とされています。因みに四大法難とは、龍の口法難のほかに松葉谷の焼き討ち、伊豆の流罪(40歳)、小松原(千葉)の襲撃です。

文永八年(一二七一)九月十二日、日蓮聖人に佐渡への流罪の刑が言い渡されます。
その道中、龍口という処刑場があり、流罪の費用もかかるので、そこで処刑にしてしまおうという事になりました。その処刑場に向う途中、当時の名で津村という所があり、一人の老婆が日蓮聖人に、ボタ餅の供養をささげました。故あって老婆は山の麓に小庵を結び、そこで生活をしていました。老婆が鎌倉へ出かける度に、聖人が辻で説法をしており、その教えを聴聞しているうち、老婆もお題目を唱えるようになりました。
老婆は聖人が龍口で処刑されると聞き、有難い聖人へ、今生最後の御供養にと小豆を煮たが、まだ煮えきらぬ間に聖人が路を通られたので、有り合せのごま塩を振りかけたボタ餅。
「形は塩餅なれど心はボタ餅」と思い、御供養された。差し出された聖人は「今末法に法華経の行者を供養する功徳は、百千万億倍に勝れたる御供養。日蓮と聞く者は仇み、見る者は怒る世の中に斯る御供養を受くる御苦心は日蓮生々世々、忘れ申さず。過分に存ずるぞ。志は確かに受け取ったり。某やがて帰り戻る時まで、そちに預け置くぞ」といい渡した。これを「首つなぎのボタ餅」といいます。
立正安国論(りっしょうあんこくろん)は、日蓮宗を開いた日蓮が文応元年(1260年)に得宗(元執権)北条時頼に提出するために撰述した文章。日蓮本人が文永6年(1269年)に筆写したとされる本が法華経寺にあり(国宝)、他にも直弟子などによる写本が多数伝わる。更に真言密教批判などを加えた増補本(「広本」)が本圀寺にある。
正嘉年間以来、地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次いだ。当時鎌倉にいた日蓮は立正安国論撰述の前年『守護国家論』を撰述したのに続いて、宗教家としての憂慮から政治・宗教のあるべき姿を当時鎌倉幕府の事実上の最高指導者である北条時頼に提示するために駿河国実相寺に籠って執筆した。後にこの書を持参して実際に時頼に提出している。
この中で日蓮は災害の原因を人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法(邪悪な教え)を信じているからであるとして対立宗派を非難し、法華経だけではなく鎮護国家の聖典とされた金光明最勝王経なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱、外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)、国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張したのである。
具体的には、当時の漁民に継承された蝦夷の哲学と法華経に秘められた数の奥義が一致することから、自然界の妙法を説いた法華経の正当性を説いたもの。なお、蝦夷の哲学とは、女性の大虫の周期が日の自転周期に一致する事から、その胎から生まれたなん人にも宇宙の理が備わり、日の恩恵を受けているという考え方。
この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。
ところが時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇の到来に至り、続いて国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇の対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。これを見た日蓮とその信者は立正安国論をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、以後も2回、合わせて3回の「国家諫暁」(権力者への助言)を行うことになる。
山門のすぐ近くをこのように江ノ電が走っています。龍口寺の門前から腰越の神戸橋まで、江ノ電は路面電車となります。これは昔も今も変わりません。ちょうどカーブになっていることもあるのか、特に龍口寺の門前は江ノ電を撮影する代表的なポイントで、休日にはアマチュアカメラマンの姿も目立ちます。
そして江ノ電の陰になっている場所に実物の江ノ電の先頭車両が看板となっている店があります。ここで江ノ電最中(1個130円)が売られています。
度々マスコミにも取り上げられる和菓子司 扇屋です。パッケージも江ノ電をモチーフにしており、もち米から作るサクッとした皮と5種類の餡が楽しめます。午前中に完売することもあるという人気の最中だそうですが、残念ながら、朝早かったので今日は買えませんでした。
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